ワルター指揮ウィーン・フィルのマーラー交響曲第4番ほか(1955.11.6Live)を聴いて思ふ

mahler_4_mozart_38_walter_vpo579音楽家の世界も政治同様駆け引きばかり。
いかに他人を出し抜くか、あるいは、足を引っ張るか。音楽家が決して聖人君子でないことは確かだけれど、実際の人柄までを(僕たちが)確認できる術のないことがせめてもの救い。

フルトヴェングラーの感じは―少なくとも私にとっては―政治的にも、人格的にも、芸術的にも―我慢できません。それに特にザルツブルクでは・・・(中略)・・・フルトヴェングラーの念頭にはただ一つのことしかありません。それは自分のこと、自分の栄光、自分の成功です。彼には才能があり、存在感のある人ですが、心根は悪い。それは彼の音楽作りにすら現れています。私は今ウィーンにいて、彼がいかに悪い人間であるかの新しい証拠を手にしました。私に対する彼の「陰謀」のせいです。
(1938年、ワルターのトスカニーニ宛手紙)
エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー/高橋宣也訳「ブルーノ・ワルター―音楽に楽園を見た人」(音楽之友社)P367

悲しいかな誰もが自分を守るために闘っていたのである。
残された録音を聴く限りにおいて、フルトヴェングラーの音楽とワルターの音楽、そしてトスカニーニの音楽はまったく異質だ。しかし、そこに良し悪しはない。誰の演奏も壮絶な20世紀前半のヨーロッパに生きた人間の証が見事に刻印されており、聴く者の心を激しく揺さぶる。

ライブのブルーノ・ワルターは一層動的だ。そして、感情移入が激しい。
不屈の精神で困難を乗り切ってきた音楽家の心魂というのはどれほど強靭なことだろう。古い録音から醸されるのは、音楽への愛はもちろんのこと、聴衆にその真髄を伝えようという必死の想念。
例えば、敬愛するグスタフ・マーラーに関しての彼の評は、個人的な関係から生じる思い入れが強い分、主観が過ぎる傾向はあるものの、実に的を射る。

マーラーの音楽の至高の価値は、興味をそそって、大胆で冒険的で、奇怪だという新奇な点にあるのではなく、その新奇さが、美しく、霊感に溢れ、深遠な音楽へと移し替えられていることにあるのである。
~同上書P358

時に色気ある音色を発し、聴衆を陶酔させる妙。
時に聴衆を鼓舞せんばかりに勢い激しく唸り、うねるオーケストラ。

・モーツァルト:交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」
・マーラー:交響曲第4番ト長調
ヒルデ・ギューデン(ソプラノ)
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1955.11.6Live)

楽友協会大ホールにおける記録。
特に、マーラーの第3楽章は、それこそ「美しく、霊感に溢れ、また深遠」で、彼自身の言を体現する見事なもの。また、ギューデンを独唱に擁する終楽章の可憐というより不思議な哀感。終演後の聴衆の拍手も気のせいか儚い。
そして、ワルター十八番の「プラハ」交響曲は、第1楽章序奏から重厚な響きに覆われ、モーツァルトの音楽の内側にある翳を見事に抉り出す。清澄快活な主部アレグロとの対比が素晴らしい。物憂げで悲しく歌われる第2楽章アンダンテを経て、終楽章プレストの格調高い確信に満ちた響きに感動。
いずれもが理想的なテンポ。

 

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2 COMMENTS

雅之

ご紹介のマーラーは、ご存じのようにウィーン国立歌劇場がベーム指揮「フィデリオ」で再建後のこけら落としをした翌日のマチネですよね。この夜、またベーム指揮で「ドン・ジョヴァンニ」を上演しているそうですから、当時のVPOは凄いですよね。

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岡本 浩和

>雅之様

そう、そうなんですよね!
驚くほどエネルギッシュで、濃密な音楽が奏でられた古き良き時代だったのだと思います。

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