シューリヒト指揮ウィーン・フィルのブルックナー交響曲第5番(1963.2.24Live)を聴いて思ふ

bruckner_5_schuricht_1963591相反する、あるいは矛盾する生と死の物語。しかし、生と死は実はひとつなのだ。
第1楽章アダージョ―アレグロに見る抑圧されし者の解放。
コーダの急ブレーキ。と思えば、急加速。ギヤの入れ替えが瞬時に交代するこの場面はシューリヒトの真骨頂。

私は“生”だけに賭けて、ぐらつきどおしだった。“死の本能”を、生きることと同時につかんだとたんに、抑圧されたもの、そして私を不自然に押しとどめていたものが、逆に自分をつき進めてゆくエネルギーとして感じられるようになった。
私自身の解釈かもしれないが、死に向かってこそ進まなければならない。私はニルヴァナ(涅槃)とかキリスト教的楽園というような、窮極的なハーモニーなどを望んではいない。生きる限り、生と死の矛盾、その解決・統一を無視したドラマに身をぶつけていきたいのだ。
「死の本能―フロイト『快不快原理を超えて』(1967年2月「文芸」)
岡本太郎著「原色の呪文―現代の芸術精神」(講談社文芸文庫)P52

実演のカール・シューリヒトの動的なこと!テンポの伸縮激しく、果たしてこれはブルックナーの定石からはずれているのではないのか?否!!「ブルックナーの方法はひとつしかない」という論のいわばアンチテーゼ。これほど生命力満ちる音楽があろうか。
「非常にゆっくりと」という指定の第2楽章アダージョは、解放されし者の安寧だ。こんなにも安らかな音楽があるのかと思うと、魂の自由を確保せねばと誰しもが焦るのもわかるというもの。時間は待ってくれないゆえ。
その上で、安らぎを得たものの死の舞踏ともいうべき第3楽章スケルツォ(モルト・ヴィヴァーチェ)。相変わらず音楽は踊る。そして、歌う。
岡本太郎は言う。

私はひどく孤独だったが、いのちを確かめながら生きている。生きようという生命感がほとばしり、あふれるのを感じる。しかしそのくせ、それだけでは何か空しい。ただ生きているということが何か本当でないような。まだ若くて、本当に生きることを知らないのに・・・。
~同上書P51

ブルックナーはただ漫然と生きることを否定したのだろうか。生命燃え尽きんばかりの音楽の裏側に潜む闇。対位法を駆使したこの交響曲の主題は、それこそ太郎の言う「生と死の矛盾(ただし、実はひとつ)」ではないのか、そして、彼なりに出した解答が光溢れる「生の勝利」たる大伽藍、終楽章アダージョ―アレグロ・モデラートだったのである。ここでのシューリヒトの音楽はうねり、爆発と沈潜を繰り返す。あるいは時間的伸縮についても自由自在。
岡本太郎はかくも語る。

エロスは生の本能であり、サナトスは死の本能だ。有機的な生命がその出発点である無機的な世界に還ろうとする。この対極的本能の猛烈なからみあい。アンビヴァランス。(反対感情の併存)。
動物にだって、また無意識な幼児にでも、生と死の二つの矛盾が同居している。だが、そこでは反対物が融和し、自然のハーモニーを保っている。しかしセンシーブルな人間はこの対立物を意志的に引き離し、矛盾を心身の葛藤としてえぐりだすのである。生きながら常に死を足下にふまえ、意識し、いどむ。だがそれはまた高次元においての統一を切望することである。真に人間的な努力、情熱なのである。
~同上書P51

時間の拡大と縮小。高次元においての統一を果たした真に人間的な交響曲第5番。
そして、見事に矛盾を抉り出したシューリヒトの快刀。50余年前、ムジークフェラインザールに轟いた音楽に僕は舌を巻く。

・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1963.2.24Live)

ここで1949年11月、「アヴァンギャルド宣言」における岡本太郎の言がシンクロする。

そこには簡明なフォルムがあり、職人技能からの解放は表現に無限の可能性をあたえている。エスプリと感興さえあれば、誰でもが自由に己れを表明する喜びを味わうことができるのだ。無意味であり、遊戯であって結構なのである。ペダンなインテリや精神主義者はとかく深刻な意味や内容を探し求めて、理解できるとか、できないとか言う。滑稽だ。
「芸術観―アヴァンギャルド宣言」(1949年11月「改造」)
~同上書P65

ブルックナーとはアヴァンギャルドだったのである。
今年は岡本太郎没後20年の年(1996年1月7日没)。
また、アントン・ブルックナー没後120年の年(1896年10月11日没)。
時空を超え、二人の天才の魂がここに交わる。

 

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2 COMMENTS

雅之

シューリヒトは、ブルックナーに内在するバロック的な側面をいつも私に気付かせてくれます。岡本太郎に通じるところがあるかもしれませんね。

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岡本 浩和

>雅之様

>シューリヒトは、ブルックナーに内在するバロック的な側面をいつも私に気付かせてくれます。

同感です。
この人の実演に触れてみたかったとつくづく思います。

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