シュパヌンゲン音楽祭アンサンブルのマーラー交響曲第4番(シュタイン編曲版)(2014Live)を聴いて思ふ

mahler_4_festival_ensenble_spannungen604センス満点のサロン音楽の如しの装いに替えられたマーラーの音楽は、実に華やかで親しみやすい。原曲にまったく引けをとらないよくできた編曲である。それどころか、より透明で音楽的(な気がする)。

シェーンベルクによって1918年の秋に旗揚げされた私的演奏協会は、わずか3年の期間を経て1921年12月に一旦その活動を終える。それは、時代背景もあろうが、おそらく評論家を会場から締め出し、野次だけでなく拍手すらもコントロールしようとした在り方、すなわち「遊び」の精神のなさに起因するのかもしれない。

みたび岡本太郎の言葉。

かつて人間生活の中心に全体を支える神聖な「まつり」があった。今日考える宗教というよりも、むしろ人間の集団の情熱みたいなものが結集された社会的行動として。人間が激しく自然と対決して生きて行くために、一種、人間を超えた神秘をみずからに具現したのだ。また集団として生きるために当然、共通の、神聖なハーモニーが必要だった。超自然的なものと、形而下のあらゆる人間のアクティヴィティーがそこに渾然と一体になる熱烈な儀式。そこにはあらゆる色、形と動きが集約されている。宗教も政治も、そして芸術、遊び、すべて未分化のままわきたつ世界。「まつり」はそれ全体がきわめて深刻な遊びとしてあったと言ってもいい。
やがて社会の発達とともに、すべてが分化しはじめる。それぞれのアクティヴィティーが全体のハーモニーから独立して、それ自体の目的を追うようになった。遊びはただの遊びになってしまう。社会、共同体の神聖な目的を離れ、単なる個人の、あるいは特定のグループの慰みごとに格下げされて行く。
芸術も、たとえば美を目的とするようになって美学、またデコレーションになった。そして職能化がおこる、踊り、音楽、すべてそうだ。専門化され商品化される。そして、誰でもが無条件で参加する、幅ひろい根源的な「まつり」のよろこびを見失ってしまったのだ。
「芸術と遊び―危機の接点」(1967年5月「スペース・デザイン」)
岡本太郎著「原色の呪文」(講談社文芸文庫)P226-227

芸術は、本来は誰もが無条件に参加できる「まつり」でなければならないのだと。決して高尚なものではないのである。その意味で、シェーンベルクの考え方は無理があった。とはいえ一方、エルヴィン・シュタインの編曲は秀逸だ。

延べ117回のコンサートの中で、室内楽版マーラーの交響曲第4番は3回上演されたそう。マーラーの交響曲の中でも比較的わかりやすいこの作品を当時の聴衆は果たしてどう受け止めたのだろう?

・マーラー:交響曲第4番ト長調(1921年、エルヴィン・シュタインによる室内アンサンブルのための編曲)(2014.6.10Live)
シュパヌンゲン音楽祭アンサンブル
クリスティアーネ・エルツェ(ソプラノ)
クリスチャン・テツラフ(ヴァイオリン)
ベンジャミン・ベイルマン(ヴァイオリン)
フォルカー・ヤコブセン(ヴィオラ)
ターニャ・テツラフ(チェロ)
アロイス・ポッシュ(コントラバス)
マリー=クリスティーヌ・ ジュパンチッチ(フルート)
ブランカ・グレイスナー(オーボエ)
シャロン・カム(クラリネット)
マリオ・ヘリング(ピアノ)
諸岡亮子(ハーモニウム)
ハンス=クリスチャン・ショス・ソーレンセン(打楽器)
ディルク・オッフェルダー(打楽器)

優しい。終楽章のクリスティアーネ・エルツェの独唱はあまりに感情がこもり過ぎて少々違和感があるのだけれど、シュパヌンゲン音楽祭アンサンブルの巧さに脱帽!!「遊び」とはこういうことを言うのである。
1920年頃のアルマ・マーラー=ウェルフェル。

ライナー・マリア・リルケはいっている―「名声とはひとつの名前をめぐってあつまる誤解の総計である」と。
これはウェルフェルにも、マーラーにも、プッチーニにも、シェーンベルクにもあてはまる。
この箴言は、つねに、まさにそのとおりなのだ。
アルマ・マーラー=ウェルフェル著/塚越敏・宮下啓三訳「わが愛の遍歴」(筑摩書房)P110

アルマは現実を見事に客観視する。
あるいは、1921年頃の彼女。

この日フランクフルトからココシュカが次のような電報をうってよこした。「キミノ人生の最大ノ瞬間ヲノガシタモウナ。コノ世ノ万難ヲ排シテ、コノ世ナラヌ傑作『オルフォイス』ヲ見ニキタマエ。2日ノ水曜日ニアルマガボクノ心カラノ愛人デアッテクレマスヨウニ!オスカール」
ウェルフェルをおきざりにしてひとりでフランクフルトにいけるわけがなかった。できない相談だ。これぐらいのことはココシュカにもわきまえていてもらいたかった。いずれこういうことになろうとは予測していた。ココシュカのことを思うにつけ私の胸が痛んだ。でも、ウェルフェルに寄せる私の愛情はあらゆる誘惑にもまして強かった。
~同上書P113-114

真実はいかに?!
そもそも「誘惑」などという言葉を使うアルマのこの奔放さこそ「遊び」であり、「まつり」なのである。無条件で誰をも受け入れる精神が大切だ。
マーラーの交響曲第4番は随一の傑作。終演後の絶妙な静寂の後の怒涛の拍手喝采が堪らない。

 

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3 COMMENTS

雅之

>芸術は、本来は誰もが無条件に参加できる「まつり」でなければならないのだと。

>そもそも「誘惑」などという言葉を使うアルマのこの奔放さこそ「遊び」であり、「まつり」なのである。無条件で誰をも受け入れる精神が大切だ。

「まつり」⇒「命を懸けた遊び」⇒「諏訪御柱」「岸和田だんじり」「スペイン牛追い」等。

今日もひとり曲解納得です(笑)。

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