バーンスタイン指揮コンセルトヘボウ管のベートーヴェン「荘厳ミサ曲」(1978.3Live)を聴いて思ふ

beethoven_missa_solemnis_bernstein615バーンスタインにしてはとても客観的な演奏だ。
それこそ晩年のベートーヴェンの澄み切った中庸の体現。美しい。

祝福されますように、来たるものが
主の名において。

敬虔なるサンクトゥス、そしてベネディクトゥス。
ヘルマン・クレッバースのヴァイオリンが泣く。
ベートーヴェンは、死というものをまさにこの瞬間に肯定したのである。
ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」をひもといた。
主人公の諦念とは言えぬ悟りの境地の描写こそ「その時」のベートーヴェンの状態そのものだ。

彼が眼を覚ましたときにも(夜が明けていたが)、その異様な幸福は、聞こえた言葉の深い輝きとともになお残っていた。彼は寝床から出た。黙然たる神聖なる感激が彼を支持してくれた。

・・・・・・汝よく考えてみよ、
ベアトリスと汝との間にはこの炎の壁あるを。

しかるに今やベアトリスと彼との間の障壁は越えられた。
すでに長い以前から、彼の魂の大半は壁の彼方に行っていた。人は生きるに従って、創造するに従って、愛しそして愛する人々を失うに従って、ますます死から脱するものである。落ちかかってくる新たな打撃ごとに、鍛え出す新たな作品ごとに、自己から脱出して、自分の創った作品の中に、今は世に亡い愛する魂の中に、逃げ込んでゆくものである。
ロマン・ロラン作/豊島与志雄訳「ジャン・クリストフ(8)」(岩波文庫)P191-192

ロランの魂がベートーヴェンのそれとひとつになる感動的なシーン。
この場面に相応しい音楽は「ミサ・ソレムニス」だろう。

・ベートーヴェン:「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)」ニ長調作品123
エッダ・モーザー(ソプラノ)
ハンナ・シュヴァルツ(コントラルト)
ルネ・コロ(テノール)
クルト・モル(バス)
ヘルマン・クレッバース(ソロ・ヴァイオリン)
ベルンハルト・バーテリンク(オルガン)
ヒルヴァーサム・オランダ放送合唱団
レナード・バーンスタイン指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1978.3Live)

そして、クルト・モルの深い祈りに満ちた歌唱に導かれる終曲「アニュス・デイ」の恍惚。特に、「ドナ・ノービス・パーチェム(与えてください、私たちに、平和を)」の(モーザー、シュヴァルツ、コロ、モルによる)崇高な四重唱と合唱の絡みは最大の聴きどころ。
最後のプレストの何という透明で熱い充足感!有難い。

圧倒してくる一種の法悦のうちに、彼はじっと縛られてようになっていた。身を動かしたくなかった。あたかも猫が鼠をねらいすますように、苦痛が待ち伏せて窺ってることを、知っていた。彼は死人のようにしていた。すでにもう・・・。室の中にはだれもいなかった。頭の上のピアノの音もやんでいた。静寂・・・沈黙・・・。クリストフは溜め息をついた。
~同上書P239

意識が遠のく中でクリストフは何を想うのか。
そして、魂が身を離れるとき何を見るのか。

汝はよみがえるであろう。休息するがよい。すべてはもはやただ一つの心にすぎない。からみ合った昼と夜との微笑み。愛と憎悪との厳かな結合、その諧調。二つの強き翼をもてる神を、われは歌うであろう。生を讃えんかな!死を讃えんかな!
~同上書P246

すべては覚醒と沈黙を繰り返すのである。恐れるもの(こと)は何もない。
「キリエ」冒頭、管弦楽による提示に込められた万感の思い。
「主よ、憐れみたまえ」の渦巻く人間感情の壮絶。素敵だ。

 

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2 COMMENTS

雅之

とりあえず、コンセルトヘボウ 蘭学 長崎 今日は長崎への原爆投下の日 反戦平和主義 ロマン・ロラン といった連想。

>恐れるもの(こと)は何もない。

自分の死よりも、音盤死滅のほうが恐ろしかったりして(爆)。

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岡本 浩和

>雅之様

死は残された者(すなわち他)が悲しむのであって、本人は死んでしまえばどうってことないのだと思います。
その意味では他である音盤がなくなることの方が恐いというのは正論かもです。

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