ケンブリッジ・ゴンヴィル&キーズ・カレッジ聖歌隊の「バードとチューダー・リバイバル」を聴いて思ふ

byrd_and_tudor_revival622言葉にならない美しさ。
言葉を超え、迫る神聖なる音楽の崇高さ。

1539年に聖書が初めて英語に訳され、宗教音楽にも大きな変化が現れるきっかけとなる。1547年にヘンリー(八世)が没し、幼少のエドワード六世が王位を継承すると、改革は急速に進んで、プロテスタント的色彩の濃い礼拝の式次第が決められ、「イギリス国教会祈禱書」が発布された。
しかしエドワードの後を継承したメアリー一世はカトリックの巻き返しを図り、宗教改革者を国内から一掃すべく多くのプロテスタントを処刑したのである。そのため大勢の人たちが大陸へ逃げ、国民の不満も高まった。メアリーの死後、王位を継いだエリザベス一世は父の決めた宗教上の「最高首長」に政治上の「首長」を加えて自らを「至上の統治者」とすることに成功する。そしてカトリックに対しては最初は中道政策を取っていたが、次第に弾圧を強めていった。
井上太郎著「レクイエムの歴史―死と音楽との対話」(平凡社)P72-73

どうして争うのか?
宗教戦争が世界の歴史だとはいえ、人間の醜い殺戮の繰り返しに言葉がない。
思考に凝り固まる人間は、随分長い間真の信仰というものを忘れているのかもしれない。戦うことなかれ。信じる心が大切だ。

彼(ウィリアム・バード)は王宮付属礼拝堂の音楽家であったがカトリックで、国教忌避者のリストにその名が載せられていたのである。しかし女王を初め、要人の信頼が厚かった彼は、多くの災難を切り抜けた。ところがバードは晩年になってカトリックのミサ曲を3曲書き、出版しているのだ。あえて禁令を侵したのか、それとも密かにミサをおこなうために書いたのか。真相は謎に包まれている。
~同上書P74

この際、理由はどうでも良い。バードの5声のミサ曲を軸に、20世紀英国を代表する作曲家の聖なる歌を並べたアルバムを聴いて、音楽には、思想や慣習や言葉や、人間の作り上げた境界を超えた真理が通底するのだと思った。

バードとチューダー・リバイバル
・ヴォーン=ウィリアムズ:3つの合唱讃歌~第3番「聖霊降臨祭の讃歌」(1930)
サム・ドレッセル(テノール)
・ウィリアム・ハリス:永遠の統治者(1930)
ニック・リー(オルガン)
・ホルスト:2つのアンセム~第1番「辛苦するために人々は生まれる」(1927)
・タリス:葬送音楽(マーティン&ジェフリー・ショウ編曲)(1915)
・ウィットロック:オー・リヴィング・ブレッド(1930)
・フィンジ:明るく喜ばしい丘まで(1925)
アニー・リドフォード(オルガン)
・バード:5声のミサ曲
・バード:ファンタジアハ長調第2番(ムジカ・ブリタニカ第27巻第25番)(ボーランド編曲)(1907)
アニー・リドフォード(オルガン)
・ブリテン:聖母への讃歌(1930/1934改訂)
・ハウエルズ:この日こそ(1918)
・パーソール:汝はペテロなり(1840/54)
・バックス:主よ、汝われらにおしえ給え(1931)
・ハウエルズ:タリスの預言(1940)
ニック・リー(オルガン)
ジョフリー・ウェッバー指揮ケンブリッジ・ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ聖歌隊(2011.7.8-10録音)

全編にわたる優しさ。
無心で歌に浸れば自ずと心洗われる。
創造の真意がどうであれ音楽の美しさというのは時間と空間を超え、変わることがない。
なるほど、優しさの因は哀しみにあるのかも。
戦いによって世界は疲弊し、数多くの命が失われた。
別離の悲観こそが、音楽を一層深化させるのかも。
大いなる矛盾。
音楽の源は祈りであり、祭りであり、また信仰なのだと確信する。

 

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2 COMMENTS

雅之

青年 わかります。人間の「心」にまで踏み込んでいくのが哲学であり、宗教である、と。それで両者の相違点、境界線はどこにあるのです? やはり「神がいるのか、いないのか」という、その一点ですか?

哲人 いえ。最大の相違点は「物語」の有無でしょう。宗教は物語によって世界を説明する。言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。それに対して哲学は、物語を退ける。主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする。

青年 哲学は物語を退ける?

哲人 あるいはこんなふうに考えてください。真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿の上を歩いている。常識を疑い、自問と自答をくり返し、どこまで続くかわからない竿の上を、ひたすら歩いている。するとときおり、暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。

青年 ほう。

鉄人 そしてある人は、内なる声に従って歩むことをやめてしまう。竿から飛び降りてしまう。そこに真理があるのか? わたしにはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII
“岸見 一郎” – “古賀 史健”  (ダイヤモンド社 ) P29-30

琵琶湖は昔から滋賀県にあったと固く信じるのは宗教。

うんと昔は三重県にあったことを解明したのは科学。

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_124.html

そのもっと昔と、同じくらい遠い未来の琵琶湖に想いを巡らすのが哲学ではないでしょうか。

明日から遅い夏休み。旅に出ますので当分コメントいたしません。

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岡本 浩和

>雅之様

教祖がいて、経典があるのが宗教で(だから哲人が言うように歩みを止めてしまう)、そうでないのが哲学だと言えるのではないでしょうか?
あるいは、然るべきグルの下集団化されているのが宗教で、そうでないのが哲学だとも言えるかもしれません。

遠い未来の琵琶湖に思いを馳せる・・・、おっしゃる通りだと思います。

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