ブーレーズ指揮BBC響のストラヴィンスキー「夜鶯」(1990.11録音)ほかを聴いて思ふ

stravinsky_rossignol_boulez669高橋悠治とピエール・ブーレーズの1975年の対談が面白い。
前衛音楽家というのは、やっぱり何十年も先を見据えて仕事をしているのだと思う。あるいは、見事なその先見ゆえに音楽家として世に出るのかもしれないけれど。

オペラという形式は、これ以上ありえないほど死んでいますからね。アルバン・ベルクはオペラの死でした。それ以後は、まったく何もない。変革が必要だけれど、どうしてよいか、今のところはわからない。オペラはコンサート以上に過去の重荷をせおっていて、そこで何かをするのはたいへんむずかしい。
小沼純一編「高橋悠治 対談選」(ちくま学芸文庫)P120-121

ブーレーズの実に率直な本音に首肯する。しかし果たして、ジェルジ・リゲティや、あるいはカイヤ・サーリアホや、少なくとも僕的に素晴らしいと思えるオペラを前にしてアルバン・ベルクで終わったのかどうなのかは僕には判断できない。しかも、ブーレーズは次のようにも付け加えているのである。

オペラが死ぬのには大変時間がかかるでしょうね。あなたが死んでしまっても、それはまだ死につつあるでしょうし。(笑)信じないでしょうけど、ワグナーだって、1860年代には、オペラはもう死ぬと思っていたわけですけど、ごらんなさい、今でもまだ死につづけていますからね。(笑)時間がかかるわけですよ。
~同上書P123

裏返せば、低空飛行を続けながら、オペラは決して亡びないということでもあろう。
イーゴリ・ストラヴィンスキーの初期の名作、歌劇「夜鶯」を聴いた。第1幕とそれ以降の幕とに数年のブランクがあり、その間大幅な作風の進展があったゆえ、作曲者が途中放棄しようとしたものの強い依頼から完結に至った傑作。それこそワーグナーが楽劇「ジークフリート」の第2幕までと第3幕に置いた長いブランクと同様に、その劇的な変化(深化と進化)を享受できることに感謝をしたい。

冬を過ごすべく、いつものようにクラランに戻るとすぐに私は、創設されたばかりのモスクワの自由劇場から、私のオペラ「サヨナキドリ」の作曲を完成させてはどうかという提案を受け取った。私はその提案にたいへんためらいを覚えた。オペラのプロローグ(第1場)だけが存在していた。それは、前述したことからわかるように、4年前に書かれていた。私の音楽言語はそれから著しく変化していた。続く場の音楽が、その新しい意識によって、プロローグの音楽とあまりにも切り離されたものになることを私は恐れていた。私は自由劇場の理事たちに私のためらいを伝え、プロローグだけで満足し、それを単独の小規模なオペラの一場面として上演してくれないかと提案した。けれども彼らは三場からなる完全なオペラにこだわり、結局私を説き伏せた。
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記」(未來社)P62-63

その後、自由劇場は倒産し、この作品は結果的にディアギレフとバレエ・リュスの手によって上演されることになるのだが、すべては自由劇場が作曲家を説得してくれたという功績。何よりブーレーズの知的かつ音楽的、有機的な指揮、解釈が素晴らしい。

とはいえ、初演当時はまったく注目されなかったらしい。その直前のバレエ三部作があまりに強烈だったからだろうか。

次に制作した「鶯の歌」は、主に音楽のモダン派の愛好家に向けたものだった。一般の観客はメロディーがないスコアに困惑したままだった。さらに3つの場面での、ブノワがデザインした淡い色彩の舞台装置も、ロマノフによる同様におとなしい振付も、作曲家の甲高い響きとどうにも合わなかった。ストラヴィンスキーの新作はスキャンダルも事件も起こさなかったが、大きな印象も残さなかった。
セルゲイ・グリゴリエフ著/薄井憲二監訳/森瑠依子ほか訳「ディアギレフ・バレエ年代記1909-1929」(平凡社)P109

音楽と舞台美術と振付と、その三位一体を満たさなければいけないバレエの難しさ。
しかし、後になって認められるようにストラヴィンスキーの音楽はやっぱり素晴らしい。

ストラヴィンスキー:
・歌劇「夜鶯」~アンデルセンの童話にもとづく
フィリス・ブリン=ジュルソン(ソプラノ)
フェリシティ・パーマー(ソプラノ)
エリザベス・ロランス(メゾ・ソプラノ)
イアン・ケイリー(テノール)
ジョン・トムリンソン(バス)、ほか
BBCシンガーズ
ピエール・ブーレーズ指揮BBC交響楽団(1990.11録音)
・4つのロシアの歌~女声のアカペラのための(原典稿)
・4つのロシアの歌~女声のアカペラのための(ホルン4本を加えた新稿)
フランス放送合唱団(1981.5-6録音)
・弦楽四重奏のための3つの小品
アンサンブル・アンテルコンタンポラン(1981.5-6録音)
・ピアノラのための練習曲「マドリード」
レックス・ローソン(ピアノラ)(1981.5-6録音)
・管弦楽のための4つの練習曲
ピエール・ブーレーズ指揮フランス国立管弦楽団(1981.5-6録音)

ところで、高橋悠治の「コンサートで指揮して新しい流れを感じさせる音楽に出会うことはありますか」という問いに、ブーレーズは「あまりないですね。初めに戻りますが、それが研究所の必要な理由ですよ」と答える。
対して高橋が「すべてを制度化しようと・・・」と受けたことに対し、彼は次のように言うのである。

とんでもない。必要な刺激を与えるだけです。研究所(Institute)であって、制度(Institution)ではありません。
小沼純一編「高橋悠治 対談選」(ちくま学芸文庫)P124

「刺激を与えるだけ」という言葉を僕は大いに気に入った。
まさに彼のストラヴィンスキーもこの「刺激」のひとつ。「4つのロシアの歌」に秘められた土俗性は彼の手によって見事に洗練される。また、「弦楽四重奏」は、バルトークのような民族的仄暗さをもっており、それがまた魅力。

 

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2 COMMENTS

雅之

「ジャズは死んだか」という議論に似ていますよね。偉そうに先輩風を吹かす昔からの我々少数派クラヲタをメインターゲットにしていては、そりゃ若い人も入りにくいし、瀕死にもなりますわ。

日頃から思っていることですが、一般的にミュージカルを一段低いものとしオペラとして認めないのもいかがなものですかね。元々オペラは大衆文化です。ミュージカルには、オペレッタよりも巷で傑作といわれる作品は多いですし、なおさら今やサブカルが文化の中心と言ってもよい時代ですから、近年大ヒットした「アナ雪」だって、立派なオペラ(歌劇)として認めてもいいんじゃないでしょうか。

「夜鶯」は、やはり綜合芸術として、私にとっては、音楽だけでなく字幕も含めた視覚で補いたいオペラのひとつです。

>「刺激を与えるだけ」

いうなれば触媒ですね。

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岡本 浩和

>雅之様

おっしゃる通りだと思います。
クラヲタと称する人たちにも責任の一端はありますよね。
もっと枠を取っ払わないと。

ちなみに、「夜鶯」は舞台も含めて観たことがないので観てみたいと思っております。

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