バレンボイム&クレンペラーのベートーヴェン「皇帝」ほか(1967録音)を聴いて思ふ

schumann_brahms_oistrakh_klemperer237オットー・クレンペラーのすごさは、どんなときも不死鳥の如く蘇った精神力にある。
どのエピソードをひもといてみても、この人は間違いなく奇人変人。それでもおそらく、そのストーカー的な執着心が功を奏したのか、歳を重ねるにつれ音楽はいよいよ深みを増し、前人未到の境地に達したことが何より奇蹟。
晩年に彼が、当時世間にその実力を示し始めたダニエル・バレンボイムをソリストに起用して録音したベートーヴェンの協奏曲全集の、重厚でありながらもたれることのない透明感に初めて聴いたとき僕は感激した。

少なくともこの頃のバレンボイムの天才的ひらめきを伴ったピアニズム。そして、その明滅する可憐な旋律を大きく抱擁するクレンペラーの大らかさ、また音楽性。1960年代後半のクレンペラーの芸術は唯一無二であり、筆舌に尽くし難い光輝を放つ。

音楽が有調か無調か、十二音技法か不確定性かというのはどうでもいいことだ。いいか悪いかが問題なんだ。ぼくのばあいもそうだ。ぼくは、じつは不協和音も協和音も存在しないというシェーンベルクの偉大な教えに従っている。ときにはド・ミ♭・ミ・ソの響きがとてもいいし、ときにはまっさらな三和音のほうがいい。
(1969年5月21日付、クレンペラーからイルゼ・フロム=ミヒャエルス宛手紙)
E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P208

そう、すべてはいいか悪いかの問題。
この一刀両断的感性がクレンペラーの素晴らしさを形成するのであろう。それにしても老境の指揮者の創造する音楽は非の打ちどころがない。そして、それに十分すぎるほど応える若きバレンボイムのピアノの妙。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」
・ピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲ハ短調作品80
ダニエル・バレンボイム(ピアノ)
ジョン・オールディス合唱団
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1967.10.4,5,9-11,14,28 &11.3-4録音)

古き良き時代である。何という充実感!これだけの時間をかけて徹底的に作り込まれた演奏が悪かろうはずがない。まずは遅過ぎず速過ぎず理想的なテンポ、その上、一切の踏み外しなく、正統にかつ自然体でベートーヴェンの音楽が奏でられる様。

トスカニーニやブルーノ・ヴァルターには、クレンペラーのためにコンサートをお膳立てするのはやめたほうがいい、どのみちあの男はもう終わりだ・・・と釘をさされました。それでもわたしには、彼がまた大きく羽ばたくことがわかっていたのです。
(マリーア・シャコー未公開自伝)
~同上書P201

なるほど、クレンペラーの背後には常にこういう女性の存在があった。放っておけない男だったのだろう。

もうパパは演奏会はやめたほうがいいと思うけれど、レコードをつくる仕事のほうは、興味が湧く曲であればつづけていいでしょう。その方向でパパを説得しはじめています。次の演奏会はやったほうがいい。そうしたら、パパにどうしてもやる必要はないことがわかってもらえるだろうし、今後どうすべきかも(望むらくは)わかってもらえるでしょう。
(1971年9月9日付、ロッテ・クレンペラーからパウル・デッサウ宛)
~同上書P225

娘ロッテこそ晩年のクレンペラーの救世主。
まさに女性の純愛による救済を地で行く男といえまいか(彼の精神力も女性あってのものだった?!)。色気なくして芸術なし。

 

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2 COMMENTS

雅之

挫折が人を強くするんでしょうね。

それにしても当時のオーケストラはどこも男子校のように男臭く、男社会に居る歌舞伎役者に女性スキャンダルが絶えないのと同じで、芸を磨くのと心のバランスを得るためには、火遊びの経験値の多さが不可欠だったのかなとも思いました。大いに火傷もしましたが(笑)。

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