ソコロフのバッハ「ゴルトベルク変奏曲」(1982.2.27Live)ほかを聴いて思ふ

bach_goldberg_sokolov673一切の虚飾を排した演奏には真実がある。また、おそらく編集の施されないありのままの記録は僕たちの心に直接に響く。ミスタッチをものともせず、前進する音楽の妙味に、その日その場にいた人々は何を感じ、何を考えたのか?

ヨハン・セバスティアン・バッハの奇蹟、そしてグリゴリー・ソコロフの魔法。
若きソコロフによる「ゴルトベルク変奏曲」は、奇を衒わず、虚心にバッハの魂と対峙した名演奏であり、メロディア録音の決して良いとはいえない音質を超え、聴く者の想像力の飛翔を喚起する。
何はともあれ集中して耳を傾けるべきだ。できるならヘッドフォンを使ってひとり孤独に聴くのが良い。特別なことは何もしない、想像以上に楽譜に忠実でありながら強烈な印象を与える演奏は唯一無二。

「幻の名演」と謳われるなら、それは何としても聴かねばならない。
冒頭、アリアの時から時折聴こえる聴衆の咳が臨場感を醸す。
音楽が進むにつれ明らかに雑音は減り、この日の会場がいかに熱を帯びていたかがわかるというもの。繰り返しの煩わしさも何のその。真に素晴らしい「ゴルトベルク変奏曲」。ライブならではの瑕がリアルでまた良い。

J.S.バッハ:
・ゴルトベルク変奏曲BWV988(1982.2.27Live)
・パルティータ第2番ハ短調BWV826(1975Live)
・イギリス組曲第2番イ短調BWV807(1989Live)
グリゴリー・ソコロフ(ピアノ)

静謐なアリアの美しさ。ずっとでも浸っていたいと思わせる詩情。一見さらっと簡単に流しているかのように思えるが、しかし、この心のこもり方は並みでない。
例えば、第14変奏の強烈な打鍵から繰り出される轟音と中間のほっと一息つくような滑らかで優しい弱音の自然な対比が素晴らしい。続いて徐に流される第15変奏に溢れる哀しみの風情。あるいは、一音一音を丁寧に強調しながら歌われる第18変奏にある愉悦の遊び。どの瞬間もソコロフらしい煌めき。
とはいえ、僕はやっぱり第26変奏以降にシンパシーを覚える。直前の、10分近くに及ぶ第25変奏の悲しい透明感が一層の拍車をかけるのか、音楽は凝縮し、一気に駆け抜けるのである。アリア・ダ・カーポに至ってはもはや言葉がない。

ゴルトベルク変奏曲のすごさは、いわば分断されていた動きが徐々に収斂されて、混沌と、しかしひとつになってゆくところにある。最初から調和的ではないかといわれそうだが、進行とともに音楽が昇華し、この世のものとは思えない高みに達していくように僕には感じられるのだ。ソコロフの演奏はその様が見事に音化されていて、実に堪らない。
1975年のパルティータも素晴らしい。
あるいは、1989年のイギリス組曲も神がかる。

 

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2 COMMENTS

雅之

ゴルトベルク変奏曲に限らず、バッハを鑑賞する醍醐味とは、細胞の増殖や毛細血管内の流れなどのような細部と、人間個人、いやもっといえば人類全体の活動が織り成すダイナミックな色模様の変化といった俯瞰とを、同時に体感できることにあると思っています。人間や人類が不完全な存在であるなら、演奏に瑕瑾があっても一向に構わなく、むしろ瑕瑾があるからこそ説得力を増すことも大いにあるでしょうね。

※ 昨日もまた感謝の極みです。

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岡本 浩和

>雅之様

さすが良いことおっしゃる!
蟻の目&鷹の目は生きて行く上でとても大切な視点ですが、バッハを享受することでそれが磨かれますね。

それに、瑕も作品の一部だと。
となると、昨日も話に出ましたが、コンサートでの演奏以外の雑音も作品の一部。ならば、フライングブラヴォーも?笑

こちらこそいつもながら不勉強で失礼しました。
取り留めのない時間になりましたが、お許しを。
またよろしくお願いします。

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