アラウのシューベルト ソナタト長調D.894ほか(1990.11&12録音)を聴いて思ふ

schubert_18_arrauまるで恋の切なさの音化。否、これこそ「死と浄化」と呼ぶべき代物かも。
沈潜する音の風景に、死の淵を彷徨うフランツ・シューベルトを思う。
クラウディオ・アラウの、最晩年の、死のわずか半年前の表現は、冒頭から「死」を(無意識的に)意識し、とらえたものだ。研ぎ澄まされた音。高音部に鳴り渡る鐘の音は、自身の近い死の予感。一方、低音部に沸き上がる壮絶な和音は執拗な生への希求。

これほど遅いテンポであっても、そう感じさせないのは、そしてもたれないのは、グレン・グールドやイーヴォ・ポゴレリッチのいうパルス(脈動)がそこに明確にあるからだろう。
1826年のシューベルト。彼の生み出す音楽は、存命だったベートーヴェンの思考すら超え、極めて形而上的で奥深い。
第1楽章モルト・モデラート・エ・カンタービレの透明美。ハイネの言葉を借りよう。

月はひっそりと、あの戸外の
みどりの樅の樹のうしろに隠れている。
そして家の中には私たちの灯りが
弱くまたたき、ぼんやり照っている。
「月はひっそりと」
片山敏彦訳「ハイネ詩集」(新潮文庫)P80-81

自然の光と人工の光が錯綜する。いや、僕たちの内なる水が月光に反射し、つながるということか。延々と続くその旋律は、いつもなら冗長に過ぎると思うところ、いつまでも浸っていたいと思わせるもの。嗚呼。
続く、第2楽章アンダンテの静かな囁き、そして強力な低音部の和音。

星が一つ落ちる、
その輝きの高みから。
今落ちてゆくのが見えるあの星は
あれは恋の星。
「星が一つ落ちる」
~同上書P55

ハインリヒ・ハイネに言わせると、恋とはそうやって生まれるものだったのか。嗚呼。

シューベルト:
・ピアノ・ソナタ第18番ト長調作品78 D.894「幻想」
・楽興の時作品94 D.780
クラウディオ・アラウ(ピアノ)(1990.11.24-12.2録音)

アラウの弾く第3楽章メヌエットに舞踏はない。あくまで内なる濃い思念が横溢する。何という深み。

わが涙より咲き出ずる
かずかずの美しき花。
わが嘆きより響き出ずる
うぐいすの諸声の歌。

君われを愛したまわば
花すべて君に贈らん、
また君が窓のほとりに
うぐいすの歌こそひびけ。
「わが涙より咲き出ずる」
~同上書P45

そして、終楽章アレグレットの、決して明朗とは言い難い憂愁。
しかし、ここには間違いなく上へ上へと昇りゆく魂の飛翔がある。

歌の翼にきみを乗せ
遠つくにの
ガンジスの野へ連れ行かん、
われは知る、いとも愛ぐしき辺りをば。
「歌の翼にきみを乗せ」
~同上書P47

生きんとする意志と死神の招きが交互に現れる明暗の対峙。
「楽興の時」も晩年のアラウらしい思いのこもった深みのある演奏。ユルゲン・ケスティングによる晩年のインタビューの中でアラウは次のように語る。

人は、もし不安感がなければ、芸術家でありえないのはもちろんのこと、人間でもありえないのです。
(訳:寺西基之)
~PHCP-5098ライナーノーツ

御意!
シューベルトにはもっと長く生きてもらいたかった。

 

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2 COMMENTS

雅之

>人は、もし不安感がなければ、芸術家でありえないのはもちろんのこと、人間でもありえないのです。

死生観は人それぞれでしょうが、身近な人の葬式にはいつも寂しい気持ちでいっぱいになります。
それは、本質的に卒業式での涙と変わらないのではないでしょうか。

思い出のアルバムを観る懐かしさと、未来に再会することへの確信のなさが交錯します。

アラウのシューベルトも、そこを慈しみ深く掬い取っているように感じます。

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岡本 浩和

>雅之様

おはようございます。

>思い出のアルバムを観る懐かしさと、未来に再会することへの確信のなさが交錯

おっしゃるとおりですね。
アラウのシューベルトには確かに「慈しみ」があります。
彼が最後に行き着いた姿なのだと思います。

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