バーンスタイン指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン序曲集(1978-81録音)を聴いて思ふ

beethoven_overtures_bernstein710日常で起こる様々による触発。「ベルクホーフ」という魔力圏は、どうやら時間の感覚を(良い意味で)麻痺させるようだ。

習慣とは、時間感覚の麻痺を意味する。あるいは少なくともその弛緩を意味する。青春期の歩みが比較的ゆっくりとしているのに、それ以後の年月が次第にせわしい急ぎ足で流れすぎていくというのも、この習慣というものに原因があるにちがいない。新しい習慣を持つことや習慣を変えることなどが、生命力を維持し、時間感覚を新鮮なものにし、時間の体験を若返らせ強め伸ばすということ、それがまた生活感情全体の更新を可能にする唯一の手段であることをわれわれは心得ている。習慣の切替え、すなわち変化とエピソードによる休養と回復、これが転地とか湯治場行きとかいうことの目的である。
トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山・上巻」(新潮文庫)P222

本来時間とは、どの瞬間も永遠を刻むものである。終りのない世界で、身体という牢屋に縛られた僕たちは、それを有限なものだと錯覚する。しかし、身体に宿る魂というものにひとたびフォーカスするならその無限はたちどころに理解できるものではないのだろうか。
ちょうどクリスマスの頃、ハンス・カストロプは思考する。

一日を、たとえば昼食の席についた瞬間から二十四時間後にふたたび戻ってくる同じ瞬間までと計算すれば、この一日はなんであろうか。それは無である―二十四時間という時間にもかかわらず。では一時間というもの、たとえば安静療養や散歩や食事―これだけでもうこの一時間という単位をすごす方法が全部出揃ったわけだが―ですごす一時間はなんであろうか。やはり無なのである。そして無をどれだけ合計してもその性質上たいしたことにはならないのである。逆に事態が最も大きなものになるのは、最小の単位の場合、すなわち体温表の曲線を継続していくために体温計を唇の間に挟んでいる時間、あの六十秒の七倍という時間の場合で、それはきわめて強靭で重みがあり、小さな永遠とでもいったようなものにまで拡大し、大量の時間が影のように掠め去る中にあって、堅牢無比な層を成していたのである。
~同上書P593-594

やはり時間とは捉える側の意志であり、また思考の産物だ。
ヴェーベルンの極小世界に感じる永遠も、ワーグナーの長大な楽劇の世界に見る永遠も、マンに言わせれば同じ「無」ということになろう。

おそらく、きっと、たぶん・・・、ワーグナーはベートーヴェンに永遠を見たのでは?
少なくとも「ハイリゲンシュタットの遺書」以後のベートーヴェンの作品には、きわめて強靭な重み、そして小さな永遠があるように僕には感じられる。

ベートーヴェン:序曲集
・バレエ音楽「プロメテウスの創造物」作品43~序曲(1978.11録音)
・ゲーテによる悲劇への付随音楽「エグモント」作品84~序曲(1981.2録音)
・コリンによる悲劇への付随音楽「コリオラン」作品62~序曲(1981.2録音)
・コッツェブーの祝祭劇「シュテファン王」作品117~序曲(1978.11録音)
・歌劇「フィデリオ」序曲作品72b(1978.2録音)
・「レオノーレ」序曲第3番作品72a(1978.2録音)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

唸りをあげるバーンスタインの棒による「エグモント」序曲の灼熱!!この音楽の内側から湧き出る、人の魂に直接働きかけ、意思意欲を鼓舞する力の源泉は一体何なのか?冒頭の強力な和音からどうにも金縛り。
また、同じく「コリオラン」序曲での確信に満ちた堂々たる響きは、ベートーヴェンに内発する勇猛な意志の反映だろうが、何よりこの当時のバーンスタインの、ようやく深みを湛え始めた指揮の賜物。
そして、「レオノーレ」序曲第3番での、懐かしくも美しい響き!!十分の祈りと思いを込めて歌われるその旋律は極めて女性的で、中でもフルート独奏に見る繊細な響きが僕の心を捉えて離さない。何という生命力!!

それでは、生命とはいったい何であったか。それは熱だった。形態を維持しながらたえずその形態を変える不安定なものが作りだす熱、きわめて複雑にしてしかも精巧な構成を有する蛋白分子が、同一の状態を保持できないほど不断に分解し更新する過程に伴う物質熱である。生命とは、本来存在しえないものの存在、すなわち、崩壊と新生が交錯する熱過程の中にあってのみ、しかも甘美に痛ましく、辛うじて存在の点上に均衡を保っている存在である。生命は物質でも精神でもない。物質と精神の中間にあって、瀑布にかかる虹のような、また、炎のような、物質から生れた一現象である。生命は物質ではないが、しかし快感や嫌悪を感じさせるほど官能的なもので、だから、自分自身を感じうるほどにまで敏感になった物質の淫蕩な姿、存在の淫らな形式である。
~同上書P572-573

なるほど、バーンスタインのベートーヴェンに僕が見出したものは、マンの言う「官能と淫蕩、そして存在の淫らな形式」なのかも。

 

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2 COMMENTS

雅之

ブログ本文は非常に難解で、何をおっしゃりたいのか頭の悪い私には今ひとつ理解できませんが、人間は、哲学、科学、宗教から、バランスよく学ぶことが肝要だと、個人的には信じています。

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岡本 浩和

>雅之様

雅之さんが理解できないのなら間違いなく僕の筆の稚拙さによるものです。失礼しました。
久しぶりに「魔の山」を斜めに読み返しておりまして、そこで偶々聴いていた「エグモント」や「コリオラン」の劇的な音楽が結びつきまして、ベートーヴェンの内に在る永遠性を思い、筆を執ったのですが、半ば夢心地で書きなぐったものなので、よく理解いただけなかったのだと思います。
おっしゃるようにバランスを欠いているのでしょう。お許しください。

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