アルバン・ベルク四重奏団のシューベルト弦楽四重奏曲第15番(1979.12録音)を聴いて思ふ

schubert_alban_berg_quartet713フランツ・シューベルトの晩年の作品に触れるにつけ、わずか31歳で生を終えなければならなかった彼の、その数年の魂の成長ぶりに感嘆の想いを禁じ得ない。
例えば、ハ長調交響曲に感じる開かれた自然の息吹が、最後の弦楽四重奏曲ともなると、僕たちの想像をはるかに超えた世界、それはまるで底なしの精神の奥の奥まで沈みゆくような深淵のような世界に変容し、その閉じられた時間と空間に恐怖すら僕は覚えるのである。それはもうあちらの世界とこちらの世界が錯綜、融合してしまっているような錯覚さえ生じさせるもの。
長尺の第1楽章アレグロ・モルト・モデラートの慟哭。
一体彼は何を悲しむのか?そしてまた何を希求するのか?
あまりに激しい感情が渦巻き、それは刻々と過ぎゆく時の中で見事に昇華され、最後は無に集約される。清らかさと静けさと、否、悲しみと喜びが同居し、その旋律はそれまでにない美しさを執拗に醸す。なるほど、シューベルトの美の源泉はそのしつこさにある。
また、第2楽章アンダンテ・ウン・ポコ・モートの安寧。チェロで奏される歌謡的な旋律のそこはかとない美しさに、彼が夢見ていた未来を思う。

・シューベルト:弦楽四重奏曲第15番ト長調D.887
アルバン・ベルク四重奏団(1979.12.17-22録音)
ギュンター・ピヒラー(第1ヴァイオリン)
ゲルハルト・シュルツ(第2ヴァイオリン)
ハット・バイエルレ(ヴィオラ)
ヴァレンティン・エルベン(チェロ)

真冬の乾燥した、そして研ぎ澄まされた空気を思う。
夜の闇に同化するその音楽の深さは言語を絶する。
アルバン・ベルク四重奏団の切れ味鋭い演奏が、シューベルト晩年の世界を完璧に描き切る。

第3楽章スケルツォ(アレグロ・ヴィヴァーチェ)の、激しくも劇的な響きは同時代のベートーヴェンのそれを凌駕する精神性を秘めるのでは?それにしてもトリオの優しい調べは、主部の劇性との対比が明確で、ほんの一時の休息のよう。
そして、終楽章アレグロ・アッサイでは、冒頭楽章の深遠な響きが影を潜め、地に足の着いた、現世肯定の様相がようやく示される。
当然だが、シューベルトに1826年の時点(死の2年前)で、死の意識はなかったとみる。ここにあるのは、明らかに生への大いなる渇望。
嗚呼、フランツ・シューベルトは美しい。

 

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2 COMMENTS

雅之

この1年くらいで、音盤を断捨離したり、こちらのコメント欄でお世話になったりしながら、自分の中で、真に必要な音楽とそうでない音楽がはっきりと明確化したようです。

ブログ本文に全面的に共感しました。

シューベルトは、私にとり紛れもなく絶対的に必要不可欠な作曲家です。

このABQの名盤、本当にいいですよね。ちなみに、こういう底知れない深みを秘めた音楽こそ、個人的にはピリオド奏法で聴きたくない筆頭です(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様

久しぶりに全面的に共感いただけたことが嬉しい限りです。(笑)
歳を重ねるごとにシューベルトの偉大さが身に染みます。
おっしゃるように、ピリオド奏法では物足りないように僕も思います。

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