John Coltrane “Ascension Edition II” (1965.6.28録音)を聴いて思ふ

major_works_of_john_coltrane732芸術とは、人間が自然に相対し、それを必死に超えようと努力を積み重ねてきた学問(?)なのかも。おそらくどんなに時間をかけようと追い越すことはできないだろう。だからこそ芸術家はいつまでも終わりなくそれを追い求めねばならない。

詩はかくして応答であることは明らかである―全く不満足であるが―しかしやはり、自然の、抑制せられぬ要求に対する応答であることは明らかである。人間にして変りがないならば、詩のない時代は在り得なかった。その最初の要素は天上の美―地上の形態のいかなる今までの配置によってもその魂に与えられないところの美―恐らくこれらの形態のいかなる結合も完全に作り得ないような美に対する渇望である。その第二の要素は既にみ見られるところのあの美の形態の間の新しい結合によって―或は我々の先人が、同様な幻を追い求めて、すでに整えたところのあの結合のさらに新しい結合によって、この渇望を癒そうとする試みである。我々はそれ故に明らかに新奇、独創、案出、想像、即ち最後に美の創造が(と言うのはここで使われているような言葉は類語であるから、)あらゆる詩の本質であると推論する。
「詩の真の目的」
阿部保訳「ポー詩集」(新潮文庫)P96

詩人は自然の美に対峙するべく、そしてそれを超えようと古より言葉を紡いできたのだろう。しかし、このポーの言葉の裏にあるのは、自然ですら完全な美をもたないということだ。醜いものがあり、そこに美が存在する。カオスがありハーモニーがあるということ。
岡本太郎は言う。

今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。
「芸術の価値転換」
岡本太郎「原色の呪文―現代の芸術精神」(講談社文芸文庫)P115

混沌の中に調和があるのは万物共通。いや、すべてが調和の中にあり、その内に混沌が創出されると言っても良いかもしれない。調和と混沌は一体なのである。
ジョン・コルトレーンが1965年に録音した2種の「アセンション」を聴いて、初めて耳にしたあの頃に覚えた抵抗感がまったくなくなっていることに気がついた。醜いものがあってこその美しさであるのに、若い頃、僕は音楽に美だけを求めて聴いていたように思う。

・John Coltrane:Ascension Edition II (1965.6.28録音)

Personnel
John Coltrane (tenor saxophone)
McCoy Tyner (piano)
Jimmy Garrison (bass)
Elvin Jones (drums)
Archie Shepp (tenor saxophone)
Pharoah Sanders (tenor saxophone)
John Tchicai (alto saxophone)
Marion Brown (alto saxophone)
Freddie Hubbard (trumpet)
Dewey Johnson (trumpet)
Art Davis (bass)

40分に及ぶ長尺のこの作品は、メンバー各々がとにかく好き勝手に振舞っているように聞こえる。しかし、集中して聴いてみるとさにあらず。すべてのフレーズにきっかけがあり、互いが互いを触発しつつ、新しいものを生み出そうとする大いなるエネルギーに溢れている。何より呼吸の一体。まるで宇宙そのものだ。
特に、すべての楽器が炸裂する瞬間の得も言われぬカタルシス。

ピアノ、ベース、そしてドラムスによるリズム隊が正しく、また冷静に音を繰り出す。その安心の土台にサックスやトランペットが強烈な音響をもって、そしてコルトレーンの強力なリーダーシップの下爆発するのである。リズムの誘発、旋律の協和、不協和。最高だ。

 

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2 COMMENTS

雅之

ゲーテは「愛する人の欠点を美点と思わない人間は、その人を愛しているのではない」と言ったそうですが、芸術への審美眼にも同じことがいえるのではないでしょうか。

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