「武満徹の軌跡~名作セレクション1957-1995」を聴いて思ふ

当時、テレビから流れる井上陽水の「最後のニュース」に触発され、武満徹は次のように書いた。

テレヴィから聴こえる井上陽水の歌は、けっして明るくはないが、あの歌を聴いていると、やはりこの世界を、もうどうしようもなくなっているのに、やはり肯定したいような気持にさせられる。あきらめと希望が同居し、明るさと悲しみが一緒くたなのに、聴きおわって、(私は)明日のことを考えている。
(「読売新聞」夕刊1990年1月5日)
「武満徹著作集3」(新潮社)P86

陽水にあるのはそれでも希望と肯定だ。

アマノジャクな人なんだろうな、とつくづく思いますね。「音楽」というと、もちろん色々な側面がありますけど、ひとつの大切な要素として、「人間の生理的な快感に訴える」という一面があり、それを武満さんは絶対に使わないようにしている。とても注意深く、綿密に避けようとしている。少なくとも、僕にはそんな風に感じられます。
(「ポリフォーン」1991年Vol.8)
齋藤愼爾・武満眞樹編集「武満徹の世界」(集英社)P214

一方、陽水をしてこう言わしめた武満徹の音楽。
しかしながら、水や光や、あるいは大地を想像させる武満の音はむしろ意図せず「人間の生理的な快感に訴えかけている」ように僕には思われる。
例えば、ビートルズの名曲「イエスタデイ」の、武満によるギター編曲版の原曲を超える寂寥感と哀愁。人間武満徹の奥深さが垣間見える名編曲だと思う。
また、ヤニス・クセナキスはこう語る。

武満徹は最も感性の鋭い前衛作曲家の一人である。日本人であるが故に、その感性にはいわば刀の刃のような純粋さがある。そこで次から次へと新しい音楽を創り出していく彼の才能は様々な開花の仕方をする。交響曲や独奏曲、映画音楽、更にはさまざまな「歌」の分野に於ても彼は傑出している。私が一番好む点は、彼が琵琶とか尺八とかいった日本古来の楽器の音色をオーケストラと配合させていることである。
(「音楽の手帖・武満徹」1981年10月)
~同上書P210

決して前衛的とは思われない武満の音楽にあって、西洋と東洋の融合、否、対峙を試みた作品を最も好むとはさすがはクセナキス。なるほど岩城宏之が武満の音楽をして「最初から地球全体のための音だったのだと、この頃思うのである」(「ポリフォーン」1991年Vol.8)と感慨深く語ったのもよくわかる。

武満徹の軌跡を作曲年代順に辿った音盤を聴きながら僕は思った。
陽水の意見は正しい。クセナキスの考えも、岩城の言葉ももちろん。そんな言い方が許されるなら、彼の音楽こそ究極のアンビエント・ミュージックであろう。

武満徹の軌跡―名作セレクション1957-1995
・弦楽のためのレクイエム(1957)
小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ(1991.9.18-20録音)
・ピアノ・ディスタンス(1961)
ロジャー・ウッドワード(ピアノ)(1973.5.3&4録音)
・尺八、琵琶とオーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」(1967)
横山勝也(尺八)
鶴田錦史(琵琶)
小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ(1989.9.15録音)
・四季(1970)
ツトム・ヤマシタ(打楽器)(1971.11録音)
・ガーデン・レイン(エルガー・ハワース編曲)(1974)
エルガー・ハワース指揮グライム・ソープ・コリアリー・バンド(1976.6録音)
・クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノと管弦楽のための「カトレーン」(1975)
アンサンブル・タッシ:
ピーター・ゼルキン(ピアノ)
アイダ・カヴァフィアン(ヴァイオリン)
フレッド・シェリー(チェロ)
リチャード・ストルツマン(クラリネット)
小澤征爾指揮ボストン交響楽団(1977.3録音)
・鳥は星形の庭に降りる(1977)
小澤征爾指揮ボストン交響楽団(1978.12録音)
・イエスタデイ(武満徹編曲)(1977)
イェラン・セルシェル(ギター)(1994.11録音)
・ギターのための4つの小品「全ては薄明の中で」(1987)
エドゥアルド・フェルナンデス(ギター)(1990.11録音)
・フルートとヴィオラ、ハープのための「そして、それが風であることを知った」(1992)
オーレル・ニコレ(フルート)
今井信子(ヴィオラ)
吉野直子(ハープ)(1993.2録音)
・径(ヴィトルド・ルトスワフスキの追憶に)(1994)
ホーカン・ハーデンベルガー(トランペット)(1994.9録音)
・フルートのための「エア」(1995)
オーレル・ニコレ(フルート)(1996.4.12録音)

初春の雨。
黄昏時の春の気配の暖かさ。
錚々たる名曲群の名演奏たちに浸り、僕は得も言われぬ幸福感を知る。
ひとつ、小澤&サイトウ・キネンによる「ノヴェンバー・ステップス」の堂々たる威風。これこそ初演の三者にしか成し得ぬ完成された響き。作曲者はかく語る。

「ノヴェンバー・ステップス」が初演されて四半世紀を経たが、最近の、小澤さんとサイトウ・キネン・オーケストラによる演奏を聴くと、鶴田さんと横山勝也さんの演奏からは、これまでにはみられないような沈潜と、優雅な趣が伝えられて、時間が豊醇な酒を醸成するように、私の若書きの青い果実が、私自身にも、成熟した姿で感じられるのだった。作曲者としてこれほどの喜びはないのだが、それはひとえに、演奏者の力量によるものだ。
鶴田さんの天賦の才は衰えを知らない。
「鶴田錦史さんのこと」
「武満徹著作集3」(新潮社)P116-117

音楽にあって再現者の力は真に大きい。武満徹の場合、自身の作品を忠実に、否、想像以上に素敵に演奏せる同志の縁があったことが本当に大きいのだろうと思う。
ふたつ、タッシによる「カトレーン」。オーケストラと4つの楽器による不安定な対話が喚起する永遠。こちらも再現者の腕の粋。
そして、みっつ。ニコレ、今井&吉野による「そして、それが風であることを知った」。
作曲者自身の「この主題は、自然界における風のしるしであり、魂あるいは無意識の記憶(夢)のしるしでもある。人間の意識を通して見えない風のように息づいている」という言葉を待つまでもなく、音楽が空間と時間の芸術であり、自然と一体であることを教えてくれる逸品。さらに、武満の遺作となった「エア」はこの世のものと思えぬ美しさ。

 

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2 COMMENTS

雅之

人種によって、同じ武満の音楽を聴いても、そもそも聴き方だけではなく、聞こえ方が違う可能性がありますよね。

青い瞳の白人と、黒い瞳の黄色人種とでは、物の見え方だって異ならないほうが不思議なくらいです。白人は黄色人種よりも、昼光色や昼白色の照明器具を極端に嫌う傾向が強いのも、その一例だと思います。

音楽にも、きっとそうした実例が数多くあるのではないでしょうか。

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岡本 浩和

>雅之様

>音楽にも、きっとそうした実例が数多くあるのではないでしょうか。

同感です。ちなみに、岩城宏之はNDRを指揮して「樹の曲」を演奏した時、どうしても納得できない出来だったにもかかわらず、それを聴いたディレクターの言葉にはっとさせられたと書いています。

「たしかに二つとも技術的な難点がある。しかし日本のオーケストラからは、タケミツの墨絵の雰囲気が出ている」
そうか。現代の音楽にも厳然と国籍や民族の音があるのだ。武満さんの音楽には、やはり日本のオーケストラの音色が合っているのだと、悟ったような気になった。
数ヶ月後に、このときの放送テープを作曲者に渡した。「きちんと美しく弾いてくれているねえ。今までで一番いい」とても喜んでくれた。墨絵のことをたずねてみたが、「正確で美しくて、心をこめた演奏が、一番嬉しい」
という答えだった。ぼくはわけがわからなくなった。このときの疑問のまま、30年近く経っている。
(「ポリフォーン」1991年vol.8)
~齋藤愼爾・武満眞樹編集「武満徹の世界」(集英社)P211

これは、聴き手にとっては聴き方がそれこそ様々である一方、創造者にとっては、どんな風に解釈してもらっても構わない。そんなことはどうでも良いということがよくわかる、実に興味深いエピソードです。

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