エリアフ・インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団2017年日本公演

グスタフ・マーラーの音楽は、やっぱり限りなく私小説的なんだと痛感した。
どんなに感情込めて紡がれようと、またどんなに理性をもって奏でられようと、彼の真意は残念ながらわかり難い。音楽を理解しようと、そして感じようとその場に集中すればするほど僕たちはとり残されるのである。
舞台で繰り広げられる灼熱の音楽は、彼の魂の赤裸々な吐露であり、愛の告白でもあり、また日常の些末な出来事の描写、すべての集積でもあった。

エリアフ・インバルの解釈は、例によって感情移入をなるべく排したもので、極めて理知的に積み上げられた客観的なマーラー。
必死に音楽を奏するオーケストラの力量も大したもの。金管群も木管群も素晴らしい響きであったし、弦楽器群も嫋やかで優しい音色を醸していた。
第1楽章が、「葬送行進曲」という名を冠されるものの、決して不吉で哀しいものではなく、むしろ死の讃歌のような、あるいは浄化を歓喜するようなそういう楽観的な音楽であると感じたのは僕だけだろうか?そして、ほぼアタッカでなだれ込んだ第2楽章の豪快で動的な音楽が、実に人間的で、死を追いやって人生を謳歌する作曲家のへそ曲がりな自己欺瞞の音楽のように思ったのはまた僕だけだろうか?

そんな風に、夢の中に浸っていた僕を、一気に現実に引き戻したのが第3楽章。このスケルツォも、マーラーのコラージュ的手法全開の「わかり難い」音楽だが、何と中間あたりで、2階席正面1列目に座していた僕の後方の席からこんな声が聞こえてきたのである。
「うるさいなぁ、しゃべるな!・・・」

小難しく支離滅裂なマーラーの音楽にまったく慣れない人が、招待なのか何なのか、おそらく間違って入場したのだろう、あちこち散らかった(?)音楽に、辟易しながら小言を囁いていたのかもしれない。
しかし、これこそが現実なんだと僕は思った。どんなに音楽が素晴らしく華麗に奏でられようと、それは仮想の物語なのである。指揮者がどれほど作曲家の人生を理解し、その音楽を楽譜通りに演奏しようともすべてを歌い切ることは不可能。ましてや、マーラーの音楽がコラージュ的に描かれる様を目の当たりにし、作曲家本人ですら時間軸に沿って自身の思考や感情を語り切ることができず、それこそ記憶の引き出しをアトランダムに引っ張り出しては押し込み、押し込んでは引っ張り出すことを繰り返していることを考えると、音楽のすべてを完璧に享受することはもはや赤の他人には無理なのである。

それでも終演後の聴衆の熱狂は凄まじかった。もちろんそれはマーラーの使徒たるインバルへの賞讃と、その解釈を見事に音化したオーケストラへの惜しみない感嘆の念であったことは間違いない。しかし、やっぱり(あらためて)僕は嬰ハ短調の交響曲は苦手だ。

すみだトリフォニーホール開館20周年記念
すみだ平和祈念コンサート2017《すみだ×ベルリン》
2017年3月13日(月)19:00開演
すみだトリフォニーホール
エリアフ・インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団
・ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」~前奏曲とイゾルデの愛の死
休憩
・マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調

コンサートとは神聖な儀式であると同時に、他人様の人生のドラマを客観視する俗的エンターテインメントでもあることを知った。少なくともマーラーの音楽が盛り上がれば上がるほど、僕の心は醒め、冷静になっていった。何だか見えない不思議な壁が良くも悪くもあったのである。

ところで、一方の、ワーグナーは文句なしに素晴らしかった。
死という幻想。ちなみに、死によってすべては解決すると期待したトリスタンとイゾルデは果たしてあの世でひとつになれたのだろうか?
今宵の「前奏曲とイゾルデの愛の死」に触れながら、生きることの苦しみも歓びも、すべてを味わい尽くすことが生まれいずる人間の責ではないのかと僕は考えていた。インバルの棒による前奏曲は生の希望と歓喜に溢れていた。旋律の浮き上がるイングリッシュホルンの明朗な歌に感涙し、クライマックスでの全楽器による轟音と官能に魂は震えた。また、ソプラノを排した「愛の死」での管弦楽の咆哮は・・・、言葉にならない。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村


2 COMMENTS

雅之

>コンサートとは神聖な儀式であると同時に、他人様の人生のドラマを客観視する俗的エンターテインメントでもあることを知った。少なくともマーラーの音楽が盛り上がれば上がるほど、僕の心は醒め、冷静になっていった。何だか見えない不思議な壁が良くも悪くもあったのである。

私もマーラーの5番はそれほど好きな曲ではないという前提で、それでも言いたいのですが、その音楽が世間で傑作どうか、名演であるかどうか、他人がどう感じるかなんて、つくづく取るに足らないと思いました。音楽が聴く者の人生にどう関わったかで、かけがえのない曲かどうかが決まるだけです。この時期、すみだトリフォニーホールでマーラーの5番を聴くということにどれだけの重みがあったかを偲ぶだけで、私には十分です。

https://op-ed.jp/news/3-11%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%AE%E5%A4%9C%E3%80%81%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%AB%E9%9F%BF%E3%81%84%E3%81%9F%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%80%80%E3%80%9C%E6%8C%87%E6%8F%AE%E8%80%85

返信する
岡本 浩和

>雅之様

おっしゃるとおりです。
それこそ「すべてが関係の中にあり、関係なくして語れない」好例だと思いました。
一昨日のトリフォニーもほぼ満席でしたし、場所がらかどうなのか、普段音楽など滅多に聴かれないであろう様な方もいらしたように思います。

何事も単独で捉えてはいけませんね。
ありがとうございます。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む