バーンスタイン指揮ウィーン・フィルのハイドン交響曲第94番(1985.10Live)ほかを聴いて思ふ

金聖響いわく、マーラーの交響曲の中で昨今の一番人気は、交響曲第5番嬰ハ短調らしい。おそらくそれは第4楽章アダージェットの人気によるものだと思うが、そこだけ切り取って一番というには少々無理があるように僕は思う。

金聖響は同じく語る。

時代が進み、人間も社会も複雑に進化し、深化してきただけに、音楽的な「解放」も、単純な「勝利」や「歓喜」だけではなく、さらに深く、広く、様々な「音」による解決が必要とされ、マーラーは、それをやってのけた、というわけです。それだけに、交響曲の構造的にも、ベートーヴェンの時代の古典的な構造、あるいは、それを(少し)発展させたロマン派の交響曲の構造とも、大きく異なるものになりました。
金聖響+玉木正之「マーラーの交響曲」(講談社現代新書)P152

進化、深化であるなら素晴らしい。しかし、頭脳的になり過ぎたゆえの難解さもそこにはついて回る。音楽的「解放」を目指したものが、結果的には音楽的「分裂」を喚起するという。

ハイドンによって確立された交響曲と弦楽四重奏曲のジャンルは、近代市民生活の「公」と「私」の領域にそれぞれ対応しているといえるだろう。よくいわれることだが、労働によって特徴づけられる「公」と余暇や家庭の営みが属する「私」への生の分離は、近代市民に特有のものである。そして後で述べるように、ロマン派音楽ではこの二つの領域の間に、深刻な亀裂が走るようになる。それはつまり、「内面感情への過剰な耽溺」と「外面への過剰な自己顕示」である。この意味でロマン派音楽はおしなべて、自己分裂を病んでいるとすらいえよう。だが古典派音楽の精神においては、この「公と私」は決して媒介のない分裂した世界ではない。
岡田暁生著「西洋音楽史―『クラシック』の黄昏」(中公新書)P110-111

なるほど、進化という妄想は、人間のエゴイスティックな側面から生じたものであることのよう。物質的発展に伴い、いかに人間は自然を忘れ、それをおざなりにしてきたことか・・・。
ヨーゼフ・ハイドンの「驚愕」交響曲を聴きながら、この均整のとれた、それでいて情緒的にも豊かで潤いのある18世紀末の音楽に、ある意味ここが音楽史上の頂点であったのではないかと思ったほど。序奏付の明確なソナタ形式を持つ第1楽章アダージョ・カンタービレ―ヴィヴァーチェ・アッサイの一部の隙もない完成度。有名な第2楽章アンダンテの旋律美と遊び精神、すなわち革新。また、第3楽章メヌエットの雄渾な舞踊と愁いのある優雅なトリオの対比。そして、終楽章の解放と昇華。

ハイドン:
・交響曲第94番ト長調「驚愕」Hob.1: 94(1985.10Live)
・協奏交響曲変ロ長調Hob.1: 105(1984.10Live)
ライナー・キュッヒル(独奏ヴァイオリン)
フランツ・バルトロメイ(独奏チェロ)
ヴァルター・レーメイヤー(独奏オーボエ)
ミヒャエル・ヴェルバ(独奏ファゴット)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

大時代的解釈に現代的センスを取り込んだバーンスタインならではの劇的ハイドン。分厚い音響に糊塗されるも見通しは抜群。何という透明感、何という温かさ。僕はこういうハイドンが好きだ。

ちなみに、1792年3月9日の第4回ザロモン演奏会で初演された協奏交響曲も名演。
ことに、第2楽章アンダンテが美しい。冒頭の弦のピツィカートに乗り、独奏ヴァイオリンと独奏ファゴットにより奏される第1主題が、独奏オーボエと独奏チェロに受け継がれ、反復される流れの妙味。

 

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4 COMMENTS

雅之

>「内面感情への過剰な耽溺」と「外面への過剰な自己顕示」 

現代人は、誰もが少なからず「ジキル博士とハイド氏」のような二重人格性を備えなければ生きていけないのかもしれませんね。

そう考えれば「彼」の作品などは、極めて「現代人的」だといえないでしょうか。

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岡本 浩和

>雅之様

「彼」の作品は結局僕は聴いておりません。「FAKE」で部分的に流されたものを聴く限りではおっしゃる通り「現代人的」だと思います。

それにしても、「FAKE」における「彼」の言動は、正直者そのもののように僕には映ります。しかし、注目を浴びていた頃の「彼」も「彼」でしょうから、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかまったく判断に困ります。それでも二重人格ということだけでどうにも片付けられない違和感が残ります。だいぶ情報がマスコミに操作されていたかもですよ・・・。(笑)わかりませんが・・・。

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雅之

>「彼」の作品は結局僕は聴いておりません。

私も、聴いたのは問題が起きてからです。

個人的に原子力は反対でも組織の中では賛成という、そういう本音と建て前は誰にでもあり、その集積が現代人の二重人格性だと思うんですよね。

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岡本 浩和

>雅之様

>そういう本音と建て前は誰にでもあり、その集積が現代人の二重人格性

確かに組織の中というのはそうですね。
細かくは書きませんが、昨日、まさにその「本音と建前」を経験しました。
人格というより、それこそ上手に生きる術なんでしょう。

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