マリア・カラスのレオンカヴァッロ歌劇「道化師」(1954.6録音)を聴いて思ふ

時間を止めても輪廻が待っている。それをも俺はすでに知っている。
三島由紀夫著「天人五衰―豊饒の海・第四巻」(新潮文庫)P150

老いた本多繁邦の思念。
今ここの時間は、止まるところを知らない。それは永遠の魂であり、この姿かたちはあくまで仮想のものなのである。その意味で僕たちは常に喜劇の中にある。そう、ピエロなのだ。

カニオは最後につぶやく。「喜劇はこれで終わりです」
どんな苦悩も、またどんな快楽もすべては芝居の中でのこと。
目を覚ませとカニオは言う。すべては運命の掌にあるのだと。

いや、たとえ青春を少しばかり行き過ぎてからでもよい。もし絶頂が来たら、そこで止めるべきだ。だが、絶頂を見究める目が認識の目だというなら、俺には少し異論がある。俺ほど認識の目を休みなく働らかせ、俺ほど意識の寸刻の眠りをも妨げて生きてきた男は、他にいる筈もないからだ。絶頂を見究める目は認識の目だけでは足りない。それには宿命の援けが要る。しかし俺には、能うかぎり稀薄な宿命しか与えられていなかったことを、俺自身よく知っている。
それを俺の強靭な意志が宿命を阻んで来たからだ、と言うのは易しい。本当にそうだったろうか。意志とは、宿命の残り滓ではないだろうか。自由意志と決定論のあいだには、印度のカーストのような、生れついた貴賤の別があるのではなかろうか。もちろん賤しいのは意志のほうだ。
~同上書P148-149

すべては生まれながらに決められていたこと。
本多に宿命を考えさせる三島は、自身も自らに酔い、(その先に輪廻が待っていることを知りつつ)自ら時間を止めた。彼はそれこそパリアッチョを演じ切ったのだと僕は思う。

・レオンカヴァッロ:歌劇「道化師」
マリア・カラス(ネッダ、ソプラノ)
ジュゼッペ・ディ・ステファノ(カニオ、テノール)
ティート・ゴッビ(トニオ、バリトン)
ニコラ・モンティ(ベッペ、テノール)
ローランド・パネライ(シルヴィオ、バリトン)
トゥリオ・セラフィン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団(1954.6.12-17録音)

うねる管弦楽、また、ネッダを演ずる全盛期カラスの絶唱。そして、カニオに扮するディ・ステファノの感情過多ともいえる壮絶な歌に、それこそこの物語が劇中劇であることを忘れるほど。まさに僕たちはそういう錯覚の中に在るのだということを忘れてはならない。

第1幕終盤、超有名なカニオのアリオーソ「衣装をつけろ」の凄味。

衣装をつけるんだ、化粧をしろ
客は金を払って笑いに来るんだからな
たとえアレッキーノがお前のコロンビーヌを盗んで行っても
笑え、パリアッチョ・・・みんな拍手喝采だ!
笑いに変えるのさ、苦悩と涙を
作り笑いの中にすすり泣きと痛みを隠して・・・
サイト「オペラ対訳プロジェクト」

そして、直後の間奏曲のあまりの美しさ、またあまりの重み。
これこそセラフィン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団の独壇場。

ちなみに、一方の、(本多の養子となる)安永透少年の思考をひもとくと・・・。

・・・遠いところで美は哭いている、と透は思うことがあった。多分水平線の少し向うで。
美は鶴のように甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。人間の肉体にそれが宿ることがあっても、ほんのつかのまだ。絹江だけが醜さの罠で、その鶴をつかまえることに成功したのだった。そして又、たえまない自意識の餌で、末永く飼育することにも。
~同上書P118

内なる悪魔の声に翻弄されながら人間は、束の間の善にすがり、生きるのだと。
喜劇こそハッピーエンドで終わらぬ悲劇。すべては仮の姿なのだろう。
輪廻を超える法を三島はやっぱり知らなかったようだ・・・。

 

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