クレンペラー指揮フィルハーモニア管のブルックナー交響曲第7番(1960.11録音)を聴いて思ふ

「第七」は「第四」よりは上出来だが、やはり抑制の効いた解釈が物足りない。ブルックナーを演奏するのに抑制は確かに必要であるが、それは造形上の問題であって、心の問題ではない。結局クレンペラーにはブルックナーに対する共感が不足するのであろう。スケルツォ楽章は特に悪演でウドの大木を思わせる。
「モーツァルトとブルックナー」(帰徳書房)P269-270

何ともひどい言い様。今の僕にはこの評はまったく腑に落ちない。

世界に無駄はないのだと思う。
判断すること、ましてや評価することなどおこがましい。
世間がどんな評価を下そうと、自らのセンスを信じることだ。
世界に無駄はないから。
20年前、朝比奈御大と宇野さんの対談を読んだとき、少々僕は驚いた。
何と宇野さんが否定していたオットー・クレンペラーのブルックナーを御大が推していたのだから。あの幾度となく体験した崇高なブルックナー解釈の裏には何とクレンペラーの心魂が存していたことになる。

宇野 ところで先生は若いころ、クレンペラーから何かを示唆されたという話をうかがっていますが・・・。
朝比奈 クレンペラーにはお目にかかったことはないんですが、レコードを聴いたり、著作を読んだりして心酔していた時代がありましてね。
宇野 どういう点で?
朝比奈 構成がしっかりしている。音楽ですから、情緒も感情もあるんだけど、そこに流されない。ことに、ブルックナーの交響曲はいい。あの人はモーツァルトもたくさんレコードに入れていますね。モーツァルトとブルックナーというと寸法が合わないみたいだけれども、スタイルとしては同じでとても勉強になるんです。ブルックナーを勉強していた時代には、クレンペラーのブルックナー録音をほとんど全部聴いていました。今でも全部持っていますよ。
ONTOMO MOOK「朝比奈隆―栄光の軌跡」(音楽之友社)P72

ブルックナーを語るのにモーツァルトを引き合いに出されている点、それこそ宇野さんの志向(嗜好?)に近いものがあると思うのだが、残念ながら宇野さんは朝比奈先生のこの言葉を無視しておられる。適切な(?)言葉を返せなかったのだろうか。

・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(1885年稿ノヴァーク版)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(1960.11.1-5録音)

御大の第7交響曲を一押しとする僕にとって、クレンペラーの演奏は確かに興味深い。しかし、ノヴァーク版に指定のある第1楽章コーダのアッチェレランドがいかにもとってつけたようにせかせかしていて、人工臭がする点が惜しい。
基本的に造形は抜群、そして、僕の感覚では決してブルックナーに対する共感が不足しているとは思えないゆえ(クレンペラーのこと、共感がなければ6曲も録音するはずがない)、余計にそのことが気になるのである。
第2楽章アダージョの、滔々たる音の流れもクレンペラーならではの悠揚たる呼吸に根差すもの。
そして、宇野さんが「ウドの大木」と評した第3楽章スケルツォは、それどころか重心の定まった揺るぎない演奏で、無機的な響きは皆無。特に、トリオの寂寥感はクレンペラーならでは。
さらに、終楽章の一音一音を丁寧に奏する粘りと、ともすると矮小になりがちな作品の締めくくりを、全体観をもって統率する力量が素晴らしい(ただし、この楽章こそ何だか大味で汚い響きがする)。
ちなみに、クレンペラーのブルックナーについて、最後に宇野さんは相当な自信を持って次のように断言する。

クレンペラーのブルックナーは確かに構えが雄大で精神がこもり、群少指揮者の遠く及ばぬ境地に達しており、部分的には美しい個所も少なくないが、ブルックナーの音響とは似て非なるものだ。このことだけは断言しておこうと思う。
「モーツァルトとブルックナー」(帰徳書房)P270-271

彼が全面的に否定しているのではないことも読みとれる。今となってはその功罪が語られる宇野さんだが、この人の存在は時代的に必要であり、必然であったのだと思う。あとがきの宇野さんの言が興味深い。

自分の音楽観をはっきり出してゆくと、好き嫌いで批評をしているのではないか、と言われることがあるが、批評というものはそのような低い次元で行えるものではなく、もっと切実な人間としての主張があるのだ。たとえ自分の敬愛してやまない演奏家のものでも、良いもの、悪いものの区別ははっきりつけたつもりだ。
~同上書P372-373

とはいえ、良し悪しは他人が量るものではないと、やっぱり今の僕は思う。

 

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4 COMMENTS

雅之

>とはいえ、良し悪しは他人が量るものではないと、やっぱり今の僕は思う。

又吉くんなどは、こうおっしゃっています(笑)。

又吉 直樹 (著)「 火花 」(文春文庫) から、先輩漫才師 神谷の台詞(P40~41)

「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん?共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな」

「論理的に批評するのは難しいな。新しい方法論が出現すると、それを実戦する人間が複数出てくる。発展させたり改良する人間もおるやろう。その一方でそれを流行りと断定したがる奴が出てくる。そういう奴は大概が老けてる。だから、妙に説得力がある。そしたら、その方法を使うことが邪道と見なされる。そしたら、今度は表現上それが必要な場合であっても、その方法を使わない選択をするようになる。もしかしたら、その方法を避けることで新しい表現が生まれる可能性はあるかもしらんけど、新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんかど、成熟させずにそれを捨てるなんて、ごっつもったいないで。新しく生まれる発想の快感だけ求めるのって、それは伸び始めた枝をポキンと折る行為に等しいねん。だから、鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんど衰退する。確立するまで、待てばいいのにな。表現方法の一つとして、大木の太い一本の枝になるまで。そうしたら、もっと色んなことが面白くなんのにな。枝を落として、幹だけに栄養が行くようにしてるつもりなんやろうけど。そういう側面もあるんかもしらんけど、遠くから見えへんし実も生らへん。これだけは断言できるねんけど、批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる」

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岡本 浩和

>雅之様

いやあ、さすがは又吉くん!わかってらっしゃる。素晴らしいです。
ところで、この筆致って何だか夏目漱石っぽいですね。
実に理知的で示唆に富んでいると思いました。(天邪鬼のため、「火花」は今日の今日まで読んでおりません)

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雅之

>天邪鬼のため、「火花」は今日の今日まで読んでおりません

それを流行りと断定したがる奴が出てくる。そういう奴は大概が老けてる。(又吉)

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