朝比奈隆指揮東響のブルックナー交響曲第7番(1980.9.26Live)を聴いて思ふ

長い音楽体験のなかで、朝比奈御大のブルックナーについては、そのどれもが何ものにも代え難いもので、どうにも言葉にするのが難しい。音楽は語るものではないのかもしれない。

僕がアントン・ブルックナーの音楽と出逢ったのは、1980年のこと。
実況生放送だったのか、あるいは後日の放送だったのか記憶は定かでない。
あの夜、ラジオから鳴った音楽に釘付けになり、衝撃を受けたことを僕は鮮明に覚えている
1980年9月10日の大阪フィルハーモニー交響楽団第168回定期演奏会。
前プロであるモーツァルトのファゴット協奏曲は確か放送されなかったと思う。
交響曲第7番第1楽章アレグロ・モデラート冒頭の悠揚たる響きにいきなり感動した。
特に、展開部の懐かしさに戦慄。そしてまた、第2楽章アダージョの荘厳な美しさに瞠目し、その日から僕は昼夜を問わず毎日(カセットテープに録音された)その音楽を繰り返し聴いた。

ところで、宇野功芳さんをして「あの長大なエコーを伴ったコンサートには一長一短あり、聴く席によっても印象は大いに異なったが、一つの試みとしては成功であったと思う」と言わしめた東京はカテドラル教会マリア大聖堂での同曲の演奏は、それから2週間ほど後のものである。そのときの聴衆や会場や、あらゆる条件を考慮して解釈を変えた朝比奈隆の、ある意味神髄を示す類い稀なる交響曲第7番。
個人的な思い入れはこの際抜きにしても、朝比奈によるこのブルックナーは唯一無二だと納得させられる名演奏だと僕はあらためて思った。

何より本来伴奏となる弦楽器群の旋律を前面に押し出した、第1楽章コーダの微動だにしない重厚な解釈は他では聴く事のできない朝比奈の真骨頂であり、特にここでの残響過多ともいえる環境での演奏の意味深さは言語を絶する。
また、27分余りを要する第2楽章アダージョの、感動で心を震わせたあの夜を髣髴とさせる音楽に再び僕はのけ反った。ゆっくりと歌われる旋律には、どの瞬間にも命が懸っていて、ブルックナーの魂が見事に刻まれる。頂上に向かっての重い足取りはそれでいて喜びに溢れ、ハース版の打楽器を伴わないクライマックスは祈りの権化。いつ果てるとも知らぬ、ワーグナーを悼むコーダも真に美しい。

・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
朝比奈隆指揮東京交響楽団(1980.9.26Live)

そして、第3楽章スケルツォは弾け、終楽章はうねる。
前半2楽章に比較し、いかにも軽いと時に酷評されるこの後半2つの楽章も、御大の手にかかっては堂々たる体躯を露わにし、この巨大な音楽は実に丁寧かつ雄渾に締めくくられる。

ちなみに、1997年5月19日の宇野さんとの対談で朝比奈御大は次のような言葉を残している。

例えばベートーヴェンにしても、偉い作曲家は、人生でいろんな経験をしておられますね。音楽は人間体験のひとつですから、ただピアノが弾けるとか、楽典を知っているからというだけでは理解できません。専門技術と知識だけではだめなのです。
ONTOMO MOOK「朝比奈隆―栄光の軌跡」(音楽之友社)P2-3

「音楽は人間体験のひとつである」という言葉に納得。

 

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2 COMMENTS

雅之

「いのちの車窓から」星野 源(著)(㈱KADOKAWA) の中の、「人間」という題のエッセイ(P50~P56)を読み、思わず朝比奈先生のことを重ね合わせてしまいました。

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%81%AE%E8%BB%8A%E7%AA%93%E3%81%8B%E3%82%89-%E6%98%9F%E9%87%8E-%E6%BA%90/dp/4040690664/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1493555316&sr=1-1&keywords=%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%81%AE%E8%BB%8A%E7%AA%93%E3%81%8B%E3%82%89

かつて「笑福亭鶴瓶落語会」の大阪公演後の打ち上げ会場で、酔いが回った笑福亭鶴瓶は、自身も大病を患ったばかりの星野に、「まだ勘三郎が死んでから1年やろ。なのにもう、みんな忘れる。死んだら終わりやで。だから源ちゃんは死んだらあかんねん。ほんま、死なんでよかったなあ」と中村勘三郎さんの死にからめ声をかけてきてくれたそうです。ところがその2年後、星野が見ていた舞台で鶴瓶は、故 松鶴師匠のエピソードを話し出し、「人間は死んでも終わりじゃないんです。残された者が、その人を語り、バトンをつないでいきますから。だから人間は死んでも終わりじゃない、それが今回私が言いたかったことです」という言葉で、噺を閉じたといいます。

・・・・・・「人間は死んだら終わりなんや」「人間は死んでも終わりじゃない」
このふたつの言葉の間に、どれだけの想いと、憤りと、決意があったんだろう 。
帰り道、山手通りを歩きながらそれを想い、ひとり泣いた。・・・・・・同上書 P55~P56

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岡本 浩和

>雅之様

鶴瓶の言葉はどちらも正しいんだと思います。
ああ、無常。(笑)

星野源の素敵なエッセイのご紹介ありがとうございます。
僕のなかでも朝比奈先生は亡くなっても終わりではないようです。

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