イストミン、シュナイダー&カザルスのシューベルト三重奏曲第1番(1951Live)を聴いて思ふ

「正しい形を見極めて貰う必要はなし」
「一度でも上手く引けたらそのメカニズムが身体でわかるから」
「・・・」
「だから何度でも引いて」「正解を待つ」
ということだそうです。

「正解を待つ・・・」「『待つ』のですね」「『求める』のではなく」
くらもちふさこ著「花に染む⑥」(集英社)P121-122

何にせよ身体でわかるまで鍛錬を続けろということ。
和弓の極意である圓城陽大のこの言葉は、生き方にも通じるすべての真髄を突く。

また、坊野学園の弓友達から佐々木宛てに送られてきた各々が満面の笑顔を湛えた写真を見て、宗我部花乃は悟る。

負ける
結束力見せつけられた
佐々木さんの気持ちがこっちに来てくれないのも
わかった気がする。
くらもちふさこ著「花に染む⑦」(集英社)P162

個々の継続的な鍛錬と結束力のなせる技。
実に深い。
プラド音楽祭でのパブロ・カザルスらのシューベルトの古い実況録音を聴いて思った。
弓の世界のことは詳しく知らない。もちろん音楽家の世界についてもだ。
しかし、百戦錬磨の3人の奏者たちが繰り広げるトリオの喜びと美しさ。
例えば、第3楽章スケルツォ。いかにもシューベルトらしい、晩年の音楽が跳ね、僕たちを虜にする。どうしてこれほどまでにシューベルトの音楽に癒されるのだろう?
喜多尾道冬さんは、特に最晩年のシューベルトの作品の魅力を次のように分析される。

人間の心は、イノヴェーションの進展する近代に入ってからいっそう複雑化した。そのもつれを解き明かすためにフロイトは精神分析という手法を編みだした。だが、それに先駆けて心の深層に目をとどかせ、急速なイノヴェーションによって傷ついた心を慰撫する道を探ろうとしたのがシューベルトだった。
喜多尾道冬著「シューベルト」(朝日新聞社)P276

なるほど、どこか晦渋ともいえる難解さを持つシューベルトの最後の作品群は、(おそらく自らの)心のもつれを慰めるために創造されたものだとするなら納得がゆく。

・シューベルト:ピアノ三重奏曲第1番変ロ長調D898
ユージン・イストミン(ピアノ)
アレクサンダー・シュナイダー(ヴァイオリン)
パブロ・カザルス(チェロ)(1951Live)

カザルスの十八番。何て温かい音楽なのだろう。
第1楽章アレグロ・モデラートの明朗快活な響き。例によって息の長い音楽は、どの瞬間も愉悦に満ちる。また、第2楽章アンダンテ・ウン・ポーコ・モッソの哀しい歌。こういう優しくも涙を呼ぶ歌謡的な旋律をいくつも生み出せるところがシューベルトのすごさ。カザルスのチェロが泣き、イストミンのピアノが唸る。

終楽章ロンドがまた3人の力が見事にひとつにまとまって、きれいな円環を描くよう。少なくとも彼らの演奏には作曲家特有の冗長さを感じない。(まるで「軍隊行進曲」のように僕には聴こえるのだ)

 

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2 COMMENTS

雅之

シューベルトの音楽は構造的には欠点だらけの作品が多いかもしれないけれど、瞬間、瞬間の霊感にあふれているような気がするのですが、その点、ブラームスの作品には構造的な欠点は少ないけれど、私には、いかにも頭で考えぬいた、良くも悪くも優等生的な、官僚の作文のような趣を感じてしまいます。

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岡本 浩和

>雅之様

瞬間、瞬間の霊感に溢れるというのが肝ですね。
モーツァルトの場合もそうですが、夭折の天才にだけ与えられた能力なのかもしれません。

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