デュトワ指揮モントリオール響のストラヴィンスキー「春の祭典」ほか(1984.5録音)を聴いて思ふ

あなたは誰ですか?
私は誰?
それこそ永遠の命題。
人は死ぬまでその問いを自らに発し続けるのだと思う。

私はどこから来たのでしょう
それは誰にもわからない
私はどこまで行くのでしょう
きっとみんなも行くところ
風は吹き、海は流れる
そこは誰も知らないところ
私はどこまで行くのでしょう
答えは誰もわからない

セントラル・パークで二人が初めて逢った夜更け、ジェニーが澄んだ声でエブンに歌ってくれた歌である。
久世光彦著「聖なる春」(新潮社)P158-159

すべて芸術の問いかけもここに行き着くのではなかろうか?

「火の鳥」の最後の数ページを書き上げつつ、ある日、まったく不意に―というのも、当時ぜんぜん違う事柄で私の頭はいっぱいだったからだ―、異教の大がかりな祭儀の光景が脳裏に浮かんだ。年老いた賢人たちが輪になって座り、春の神の慈悲を願って彼らが捧げる処女の生贄の踊りを見守っている光景である。「春の祭典」の主題だった。その幻想が私に強烈な印象を与えたので、私の友人の画家で異教性の喚起にかけては玄人だった私の友人ニコライ・レーリヒにそのことを話した。彼は私のアイデアを熱烈に歓迎し、同作品のための協力者になった。パリで私がそのことについてディアギレフに話すと、彼は即座にその計画に夢中になった。
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記」(未來社)P39-40

世紀の傑作「春の祭典」誕生秘話。
一つの作品が世に出るのは、たくさんの人の協力があってのこと。すべては「関係」の中にあることがこんなところからも理解できる。

シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団のストラヴィンスキー。
1984年の秋だったか、僕が4枚目に購入したコンパクト・ディスク。(今は懐かしい)ディスクポート西武渋谷店で3,500円也。

ストラヴィンスキー:
・バレエ音楽「春の祭典」(1921年版)
・管楽器のための交響曲(ドビュッシーの追憶に)(1920年オリジナル版)
シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団(1984.5録音)

デュトワの「春の祭典」は今も強力に後押できる推薦盤。どの瞬間も血が通い、音楽は透明感を保ちながら時に熱狂し、時に沈静する。
何より洗練されつつ土俗性を忘れない第1部「大地礼讃」の、優れたアンサンブルと音楽の恍惚。あるいは、第2部「生贄」の、強烈な金管の咆哮と打楽器の悶える如くの深みのある轟き。

ところで、ストラヴィンスキーはお金を得るために自作の改訂を頻繁に行ったといわれる。真偽は定かでないが、どんな事情があるにせよ、やっぱりどの作品も結果的に初稿に魅力があるように僕は思う。ドビュッシーの追悼に書かれた「管楽器のための交響曲」然り、音楽がどこか整理し切れていなく、危ない位の赤裸々な様相を示しているのである。
コーダの暗澹たるコラールの悲しみ!

私はカレンダーを一枚破った。三月―詩人たちが春を謳いはじめる季節である。クリムトも、死がついそこに見えたとき、ウーラントの短い詩を思い出しただろうか。

あなたたちは
新しい地面に播かれた
草の種子
いま 聖なる春を待っている
花の種子
久世光彦著「聖なる春」(新潮社)P164-165

「春の祭典」は20世紀音楽のまさに新しい地面に播かれた「種子」となった。
何度聴いても魂に肉薄する素晴らしさ、美しさ。

 

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2 COMMENTS

岡本 浩和

>雅之様

出典が明記されていないので、おそらく久世さんのオリジナルだと思いますが、
ゴーギャンの絵からヒントは得ているかもしれません。
ただし、「聖なる春」はクリムトの絵に触発されているものです・・・。

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