マリア・カラスのプッチーニ歌劇「蝶々夫人」(1955.8録音)を聴いて思ふ

悲しい結末の物語が、暗くも色気のある音響でもって肉薄する。
あの頃のスカラ座の創り出す音楽はとても深く、聴く者を魅了したのだろう。
マリア・カラスの歌唱はもちろん素晴らしいのだけれど、それ以上にカラヤンの棒の凄味。月並みな表現だが、例えば間奏曲に溢れる濃密な官能性は他では味わえないもの。ミラノ・スカラ座のオーケストラの漲るパワーとエネルギーに感服せざるを得ない。

第2幕第1場最初の蝶々さんのアリア「ある晴れた日に」での、瑞々しくも切ない魂にまで響く熱唱。本当はもっと可憐さがあっても良いように思うが、それはカラスには求められぬ。

ある晴れた日に、私たちは見るのよ
ひとすじの煙が昇るのを
水平線の彼方に
そして船が現れるの
やがてその白い船は
港に入り
礼砲を鳴らします
見える?あの方が来るでしょ
でも私は迎えには行かない 行かないの
丘のふもとで待っているのよ
ずっと待つの つらくなんかないわ
長く待つことなんて
そうしたら 町の人込みから
小さな点のような男の人がひとり
丘を上がって来るの

この有名なアリアが、カラスの声を得て、またカラヤンの棒を得て、役を超え信じられないくらいの真実味をもって迫る。あるいは、「お前のお母さんはお前を抱いて」での絶唱は、後半絶望的な心情を帯び、ここでは管弦楽も静かに泣く。

あんな不名誉な仕事をするなんて!
死ぬわ!死ぬわ!人前で踊るくらいなら!
それなら命を絶つ方がいい!
ああ!死んだ方が!

言葉に表し難い死を想像させる官能。

・プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」
マリア・カラス(蝶々さん、ソプラノ)
ルチア・ダニエリ(スズキ、メゾソプラノ)
ニコライ・ゲッダ(ピンカートン、テノール)
ルイザ・ヴィッラ(ケイト・ピンカートン、メゾソプラノ)
マリオ・ボッリエッロ(シャープレス、バリトン)
レナート・エルコラーニ(ゴロー、テノール)
マリオ・カーリン(ヤマドリ公爵、バリトン)、他
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団(1955.8.1-6録音)

いかにもドイツ・オペラのようなこれほどまでのうねりが「蝶々夫人」に必要なのかどうなのかはわからない。しかし、そもそもプッチーニのオペラにそれほど愛着を持っていなかった僕が、この「蝶々夫人」にだけは耳が開かれる思いがしたのだから、録音の古さを超えての迫真は本物なんだと思う次第。
それにしても第2幕第2場冒頭の間奏曲が素晴らしい。冒頭トゥッティの強烈な音に痺れ、幾つもの主題の絡みと流れる旋律の美しさに脱帽。

カラスの語りは感傷的なピアニッシモで始まり、再会で実現する夫婦水入らずのひとときを思うにつれて内省的になっていった。ピンカートンは戻らないかもしれないという不安がつのると、彼女は声に力をこめていき、やがて自分自身を納得させるかのように感情を爆発させた:「私は心から信じて待つの」
ステリオス・ガラトプーロス著/高橋早苗訳「マリア・カラス―聖なる怪物」(白水社)P268

※日本語歌詞はサイト「オペラ対訳プロジェクト」から引用

 

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2 COMMENTS

雅之

>いかにもドイツ・オペラのようなこれほどまでのうねりが「蝶々夫人」に必要なのかどうなのかはわからない。しかし、そもそもプッチーニのオペラにそれほど愛着を持っていなかった僕が、この「蝶々夫人」にだけは耳が開かれる思いがしたのだから、録音の古さを超えての迫真は本物なんだと思う次第。

これが本当の「バタフライ効果」ですね。古き良き時代には、風が吹けばレコード屋が儲かる、でしたっけ(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様

>これが本当の「バタフライ効果」ですね。

まさに。
しかし、風が吹いてもレコード屋はそんなに儲からなかったんじゃないですかね・・・。
あ、ポピュラー系は儲かっていたか・・・。

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