フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管のベートーヴェン第9(1951.7.29Live)を聴いて思ふ

神からは一切が清らかに流出する。私が幾度か情念のため悪へ混迷したとき、悔悟と清祓を繰り返し行なうことによって私は、最初の、崇高な、清澄な源泉へ還った。―そして、「芸術」へ還った。そうなると、どんな利己欲も心を動かしはしなかった。常にそうあってくれるといい。
(1815年、ベートーヴェンの「手記」より)
ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P171

ベートーヴェンの、この無我の体験こそが、いわゆる後期の清らかで深遠な世界を創造する源泉になったのだろうと想像する。
1951年7月29日の西ドイツはバイロイト。

とてもリアルな実像。
一切の先入観を捨てて聴いてみると、わかる。
この演奏会に賭ける意気込み。
緊張感と類稀なる集中力。まさに祝祭だ。

シュヴァルツコプは語る。「あれは恐ろしいことでした。本当に恐ろしいことでした。誰もかれもみんなどきどきして、とても緊張していました。私たちは午前中にリハーサルを済ませたのですが、公演の直前にまた通し稽古をしました。三つのとてつもない楽章が済むまで舞台の袖で待っていて、それから独唱者が登場します。ソプラノのパートは、まったく人間わざとは思えないほど難しいもので、しかもたいへんな責任がありました。それで、みんなずっとパニックに陥っていました―とくにあの公演のときは」。
(1990年4月4日、チューリヒにおけるサム・H・白川氏との直接対話)
サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」P394

幾度ものリハーサルを経ての演奏会だったのだろう。
録音史上屈指の大イヴェントの、(おそらく編集のないであろう)ありのままの記録には、会場の熱気と緊張とが見事に刻印される。
しかしながら、この崇高な音楽体験とは裏腹に、戦後のごたごたの中にあったバイロイトでは、当時様々な問題が勃発していたという。

1951年7月11日に行なわれた《ワルキューレ》のリハーサル休憩中に、54歳になったヴィニフレートは女友達のレーネに、すぐにバイロイトに来てくれるよう懇願した。「ただでさえ辛いこの時を、一人で耐えるなんて、もっと辛い!こんなにも孤独を感じたことはないわ(・・・)客席に座り、状況に身を任せ、何があっても、はいはいと頷いて切り抜ける。しかし目に入る多くのものは急進的であり過ぎて、胸が引き裂かれる!」「音楽家の99パーセントは、知らない人たち―フィディがいない、ハインツもいない。心臓が潰れそう!!」緑の丘では諍いが絶えず、ヴィーラントとパウル・エバーハルトの間でも争いが続いた。「喧嘩。破滅。おしまいだ。もう止めだ―若者とはこんなもの。動揺する必要はありません」。
ブリギッテ・ハーマン著/鶴見真理訳/吉田真監訳「ヒトラーとバイロイト音楽祭―ヴィニフレート・ワーグナーの生涯(下・戦中戦後編)P261-262

ワーグナー家を中心にした醜い人間模様。
その上、フルトヴェングラーまでもが騒動を引き起こしていたというのだから・・・。

フルトヴェングラーは自分のリハーサル中に、彼が「男K」と呼んでいた若いライバル、ヘルベルト・フォン・カラヤンが客席にいるのを見つけ、怒りを爆発させたのだ。カラヤンは何も言わずに劇場から出て行った。1951年7月29日、音楽祭開幕演奏会でフルトヴェングラーはベートーヴェンの第九を指揮した。コンサートはラジオで中継され、聴く人々に深い感動を与えた。
~同上書P262

フルトヴェングラーの演奏する第九は、あくまで人間世界の俗なるドラマだということ。だからこそ後世の一般の人々をも魅了するのである。それこそ普遍。

・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(アルト)
ハンス・ホップ(テノール)
オットー・エーデルマン(バス)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭劇場管弦楽団&合唱団(1951.7.29Live)

混沌にある小さな砂塵が徐々に大きく、実体化する、第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ・エ・ウン・ポコ・モデラート冒頭の神秘的静けさと迫力。また、第2楽章モルト・ヴィヴァーチェ―プレストの、真夏に相応しい祝祭的音響。そして、何より第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレ―アンダンテ・モデラートの天国的安息。
終楽章「歓喜の歌」についてはあえて何も語るまい。

 

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4 COMMENTS

雅之

>シュヴァルツコプは語る。「あれは恐ろしいことでした。本当に恐ろしいことでした。誰もかれもみんなどきどきして、とても緊張していました。私たちは午前中にリハーサルを済ませたのですが、公演の直前にまた通し稽古をしました。三つのとてつもない楽章が済むまで舞台の袖で待っていて、それから独唱者が登場します。ソプラノのパートは、まったく人間わざとは思えないほど難しいもので、しかもたいへんな責任がありました。それで、みんなずっとパニックに陥っていました―とくにあの公演のときは」。

時計の針を巻き戻して、歴史的に真逆のシチュエーションで、そういう時の当事者のドキドキの緊張感って何に匹敵するか考えてみました。

このお方のスピーチなんかもそうかも(笑)。

「英国王のスピーチ 」(トム・フーパー監督作品)

https://www.amazon.co.jp/%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%81-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89-%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-Blu-ray-%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B9/dp/B007VYVIH2/ref=sr_1_2?s=dvd&ie=UTF8&qid=1501332462&sr=1-2&keywords=%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%81

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%81

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雅之

補足

たとえば、「ORFEO盤とEMI盤は、どっちがリハーサル盤か」なんてコメントは、オーソドックスなんでしょうが、過去話題にしてきたことの繰り返しになるだけですので極力避けています。同じ話を無意識のうちに繰り返すと、若年性認知症がどんどん悪化しそうですから、いつも極力異なる角度から観たネタで新味を出そうと、無意味かもしれませんが頑張っています(笑)。

http://www.furukawa-med.or.jp/siminigaku/index34.html

http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/kourei/nin-torikumi.html

今回に限らずですが、コメント返信に苦慮されるようなら、無視していただくか、お手数ですがスパムとみなしコメントを丸ごと削除していただいて、いっこうに構いませんよ(笑)。

一度そうされたら、もう二度とコメントはいたしませんので・・・。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

認知症などというものからはほど遠いと思いますよ。(笑)

>いつも極力異なる角度から観たネタで新味を出そうと、無意味かもしれませんが頑張っています

時折的外れな返信をしたりするので「?」と思われるかもしれませんが、苦慮どころか、ましてや無意味などあり得なく、毎日楽しませていただいております。懲りずにありがとうございます。

それと、どっちがリハーサル盤なのか?などの追究は僕自身あまり興味がなく、どちらでもよい話なので、むしろ全く意外な視点での展開のほうが面白いです。

>そういう時の当事者のドキドキの緊張感って何に匹敵するか考えてみました。

シュヴァルツコップの回想は30数年後のことですから、時間を経れば懐かしいのでしょうが、言葉に表せない緊張ってあるのでしょうね。
ご紹介の映画は残念ながら観ておりません・・・。

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