カザルス&ゼルキンのベートーヴェン作品5-1&作品102-2(1953.5Live)を聴いて思ふ

丁々発止。
うなるカザルスと、時に祈るように、時に激高するゼルキンのピアノ。
とても古い録音だけれど、ベートーヴェンのチェロ・ソナタを、特に青年期に作曲した作品5を、これだけ自由闊達に伸び伸びと、同時に意味深く再生した例は後の録音でもなかなかないのでは?

重厚で柔らかいチェロの音色に、煌びやかで温かいピアノの音調。
2つの異質な音が見事に一体となる様に必然を感じた。
19分近くに及ぶ第1楽章。序奏アダージョ・ソステヌートの深々とした祈り、そして主部アレグロの軽快な喜びは26歳の作曲家の未来への希望を見事に表現する。ここは楽曲を掌中に収めたカザルスの本懐であり、また伴奏者ゼルキンの真骨頂。一方、7分超の第2楽章ロンド、アレグロ・ヴィヴァーチェは、すでに後年の深みを獲得するようで、何よりカザルスの余裕のチェロがものをいう。

1953年、フランスはプラードでの音楽祭の記録。

ベートーヴェン:
・チェロ・ソナタ第1番ヘ長調作品5-1
・チェロ・ソナタ第5番ニ長調作品102-2
ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)
パブロ・カザルス(チェロ)(1953.5.17&19Live)

1815年に作曲されたニ長調ソナタ。第1楽章アレグロ・コン・ブリオは、後期の入口にあるとは思えぬ実に外向的な音調を持ち、それをまたカザルスとゼルキンが堂々と奏で、僕たちを魅了する。何といっても美しいのが、第2楽章アダージョ・コン・モルト・センティメント・ダフェットの、暗くも穏やかな音楽。これこそ、後の「ハンマークラヴィーア・ソナタ」や「第9交響曲」の緩徐楽章の崇高な祈りに匹敵する精神性。

それでも、耳の不自由さは彼の思考内容に全く何の影響も与えなかった。
彼を己自身のうちに沈潜させたこの耳の不自由さこそ、天才を集中させ、
またそれが彼の時代への放縦さや凡庸から彼を守った、
と断言したい気持に私は駆られる。
(アルチュール・オネゲル/松本耿夫訳)
~「音楽の手帖 ベートーヴェン」(青土社)P123

オネゲルの言葉は実に的を射る。
続いて、アタッカで奏される終楽章アレグロ―アレグロ・フガートの、小さいながら精妙なフーガにある緊張感。ここでは二人の巨匠の見事なアンサンブルが光る。

 

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2 COMMENTS

雅之

そういえば、若い若いと思っていた息子のピーター・ゼルキン(1947年7月24日ー)も、7月に70歳に到達していたんですね。

改めて、月日の経つのはあっという間ですねえ。

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