ミュンシュ指揮ボストン響のベートーヴェン交響曲第7番(1949.11.19録音)ほかを聴いて思ふ

シャルル・ミュンシュという人は、それこそアルトゥーロ・トスカニーニの衣鉢を継ぐ、熱狂を伴った冷徹な演奏を真髄とした指揮者だったのだろうとあらためて思った。
晩年のパリ管弦楽団とのブラームスやベルリオーズの録音は夙に有名なものだが、もっと若い頃、壮年期のものを聴くと、どの演奏も熱波が押し寄せ、音楽はまるで生き物のように蠢き、僕たちの心を瞬間的に鷲づかみにする。
さぞかし実演は感動的なものだったのだろう。

トスカニーニは楽譜至上主義、原典重視の解釈をモットーとしていたと中には誤解していらっしゃる方もあるが、決して原典に忠実というわけではなく独自の仕掛けがあったことも事実。楽譜とは作曲家の創造をあくまで記号化した産物に過ぎないゆえ、本来解釈とは独自であるべきで、多少の改変はあっても良いように僕は思う。

ミュンシュの場合はどうか?

「あらゆる祭司職と同様、指揮者の仕事には完全な諦念、心からの敬虔がなければならない」
「コンサートで大事なことは、新しい感情を発見することではなくて、感情の強さをできるかぎり増大させることである」
シャルル・ミュンシュ/福田達夫訳「指揮者という仕事」(春秋社)

諦念と敬虔と感情の強さ。
彼自身のこういう言葉に彼の音楽のすべてがあるように僕は思う。
ベートーヴェンの交響曲を聴いた。

ベートーヴェン:
・交響曲第7番イ長調作品92(1949.11.19録音)
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1958.11.30録音)
シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団

イ長調交響曲第1楽章序奏ポコ・ソステヌートから主部ヴィヴァーチェを聴いて焼け焦げるかと思った。何とエキサイティングな。それくらいにこの演奏は灼熱の中にあることが、古い録音を超えわかる。また、第2楽章アレグレットは淡々と進めながら、内面の熱さ、充実感が半端でない(ここにあるのは敬虔)。第3楽章スケルツォの諦念(特にトリオ!)。そして、終楽章アレグロ・コン・ブリオの、冒頭過激な印象を与えつつ意外に正統派で押しまくる姿勢に拍子抜けを覚えるも、終盤の圧倒的加速と、主題を支える低音部の驚くべき力感に超絶感動。音楽は終始うねる。まさに新しい感情の強さの増大!

ちなみに、傑作ヘ長調交響曲は思ったより凡庸だ。
第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオが咆える。第2楽章アレグレット・スケルツァンドが柔和な響きを醸し、第3楽章テンポ・ディ・メヌエットは端正に歌われる。なるほど、明朗で躍動的な終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェに至り、ようやくミュンシュの本領発揮。音楽は時間とともに勢いを増し、音の一つ一つに魂が乗る。

 

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