ピリスのモーツァルトK.279, K280, K311, &K.576(1990.7&8録音)を聴いて思ふ

今頃になってあらためて痛感するのはモーツァルトの美しさ。
それも、一切の淀みのない純真さ、ザルツブルク時代の抑圧の中にあっても、描き出される透明な世界観は、彼以前の、また彼以後のほかの誰も真似のできぬものであった。

モーツァルトの父レーオポルトは単に職人的音楽家ではなく、合理的教授法を身につけた教養豊かな人間でもあったから、五歳になったばかりの息子がクラヴィアを弾きながらみずから作曲できるのを聴いて、狂気せんばかりに満足したであろう。わが子に神童の光を見たのだ。神から与えられた天賦の才能を多くの人々に示すことこそ父親としての聖なる使命だと考えたとき、その聖性に付随していったプロデューサー的俗性が、その後のモーツァルトの才能開発にプラスしたと同時に負担ともなっていった。
松田伍一「花と鬼の宴―世阿弥の内景」
「モーツァルト―18世紀への旅・第4集聖と俗の坩堝」(白水社)P141

とはいえ、この父親がいなければモーツァルトは歴史の片隅に埋もれてしまったかもしれないと思うと、生きる上で俗的犠牲というのはやっぱり必要不可欠のものなんだと思う。世に出る天才、神童というのは、古今東西、親の庇護があってのことというのは変わらぬ事実。

マリア・ジョアン・ピリスのモーツァルト。
初期のソナタがキラキラと輝き、心に沁みる。
ここには特別に何か真新しい仕掛けがあるわけではない。

神童は幼くて天真爛漫だが、貴族に取り入ろうと策したレーオポルトは名誉心と打算とによって光栄に浴しつつ、冷や汗も流したろう。才能は勝手に花開いて、父から学んだ音楽の基礎知識や演奏技術はどこかにもう踏みつけられていて、《天才が独り歩きする》のを父がただプロデュースし監督するだけになっていくと、子は学ぶことがなくなった分だけ相手を疎ましく感じたりもする。
~同上書P141-142

大司教との確執、あるいは父とのぶつかり。
少年モーツァルトを悩ませた俗世間のしがらみこそが、モーツァルトの音楽に一層の人間らしさを付加したのだと思う。音楽という創造物が聴衆あってのものだとするなら、人々の感性にアピールするものでなければならない。とりわけピリスの弾くモーツァルトは優しい。

モーツァルト:
・ピアノ・ソナタ第1番ハ長調K.279(189d)
・ピアノ・ソナタ第2番ヘ長調K.280(189e)
・ピアノ・ソナタ第9番ニ長調K.311(284c)
・ピアノ・ソナタ第17番ニ長調K.576
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)(1990.7&8録音)

何という詩情!
最初の、ハ長調ソナタが素晴らしい。
第1楽章アレグロの、躍動の中にある一抹の寂寥感の表出。ここには作曲家モーツァルトの人間としての葛藤が刻まれる。また、ヘ長調ソナタの、天真爛漫の中に垣間見える翳り。何より第2楽章アダージョから湧き出る哀しみの音調は、19歳のモーツァルトの全身全霊が込められたマスターピース。

そして、最後の、ニ長調ソナタの、経済的窮乏の最中にあるとは思えない甘美さ。特に、第2楽章アダージョの、まるで少年期に戻ったような可憐な音楽。それにしても、ピリスの、思い入れたっぷりのピアノの表情が、晩年のモーツァルトの諦念を見事に描き分ける。
何という素朴さ!

 

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2 COMMENTS

neoros2019

今エッシェンバッハDG盤のK.309の第1楽章を聴いています。
ピリスDG盤ともども、曲の完成度やその魅惑に打ちのめされています。
5番から19番までのピアノコンチェルトも換言できない魅力に溢れた究極の人類遺産と信じて疑いがありませんが、ほぼ同格にピアノソナタ群のその天才性が位置されていると考えます
やはり音楽史の中軸を担う基本たるバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの傑出した天才性に改めて脱帽したいと思います。

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岡本 浩和

>neoros2019様

おっしゃる通りですね。
モーツァルトのソナタなどは、今くらいの年齢になってより一層その魅力に取りつかれております(協奏曲然り)。

>音楽史の中軸を担う基本たるバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの傑出した天才性に改めて脱帽したい

同感です。

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