シャコンヌによるトンボー

bach_moreno_kirkby.jpgやりたいことを全力でやった方が良い。20代の若者が未来に対して不安を感じ、縮こまっているのをみるとそう言いたくなる。仮にうまくいかなかったとしても十分にやり直すだけの時間も体力もあるのだから。

やっぱり幼少期の体験や環境が後々まで人間の思考を大きく左右する。子どもの頃、何かを始めようとしたときに必ず親から否定されたという人は、そんな状況はとっくに過ぎ去っているというのに潜在意識に刷り込まれてしまっているものだから、大人になってもついつい「ビビリ」になる。回路が自動的に働き、無意識に後ろ向きの行動をとってしまうのである。そういう回路を打破することは決して簡単ではない。でもまず意識することだ。日常の中で、自身の行動が客観的に感知できるようになるだけで、パターンは随分変わってくる。そして、何より自信を取り戻すこと。何度も言うように、結局は等身大の自分自身を受容できるようにならないと変化も成長も起こらないのである。

先日の「ワークショップZERO」のセッションをしながら、そんなことを考えた。

「アレグロ・コン・ブリオ~第2章」、2年目のスタートだ。気持ちをあらたに次の1年を謳歌しよう。去年は「マタイ受難曲」を採り上げた。ならば今年は「シャコンヌ」だ。それもエマ・カークビーとカルロス・メーナの二重唱付のリュートによる珍しい音盤。

J.S.バッハ:シャコンヌによるトンボー(墓碑銘)~原曲:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番BWV1004
エマ・カークビー(ソプラノ)
カルロス・メーナ(カウンターテナー)
ホセ・ミゲル・モレーノ(リュート)

バッハの音楽は変幻自在だ。どんな風にアレンジされてもそれが原曲なのではないかと思わせるほどの説得力が常にある。この音盤も、「シャコンヌ」が妻マリア・バルバラの死を悼む音楽だったのではないかという学説を根拠に、モレーノ自身がリュート用に編曲したバージョンで演奏されている(10年ほど前に発売されたとき、思わず手を伸ばしてしまった代物)。リュートの厳粛で、しかも哀感に満ちた音色。それに、カークビーはもとよりカウンターテナーのメーナの歌唱がそれに輪をかけて心に訴えかけてくる。まさに絶唱。

「キリストは死の縄目につながれたり」
死に勝った人は誰もいない
みこころが天で行なわれるように、
地上でも行なわれますように
・・・

※以下、歌詞は続くが対訳がついていないので、英訳文から読解するしかない。キリスト教に関する知識が不十分ということもあり、なかなか骨が折れる作業で、残念ながらその詩の内容までは把握できていない。いずれ時間のあるときにでもじっくり読んでみようと思う。マルティン・ルターの作詞によるもののようだ。


7 COMMENTS

雅之

おはようございます。
「アレグロ・コン・ブリオ~第2章」、2年目のスタート、おめでとうございます。
ご紹介のCDは面白そうですね! 御多分にもれず私もカークビーの声の全盛期には魅せられてきましたので、岡本さんの高評価とくれば、これは入手し、ぜひ聴いてみたいです。
>キリスト教に関する知識が不十分
私も、根本的にキリスト教を理解していません。
愛聴するバッハの「マタイ受難曲」でいえば、第61曲で、
イエス: 「エリ、エリ、ラマ、アザプタニ?」(Eli, Eli, lama asabthani ?)
副音書記者: 「これは、『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?』という意味である」(Das ist : Mein Gott, mein Gott,warum hast du mich verlassen?)
というイエスの最後の言葉の意味するところは、私の中では何回読んでも聴いても謎です。磯山雅 氏の解説書等を読んだ後でも、釈然としないままです。
神の子であるイエスが、なにゆえにこのような神への恨みごとともとれる言葉を吐いたのでしょうか?しかも、ヘブライ語で・・・。
>死に勝った人は誰もいない
みこころが天で行なわれるように、
地上でも行なわれますように
神様を信じ、努力し善行を重ねても、ままならないのが、人の世の常です。
では、いったい神様の「自分軸」とは何なのでしょうか?
キリスト教に縁なき衆生の私には、神様は、渡世人のようにサイコロを振ってばかりの、気紛れで自由奔放なお方のように見えます。
>やりたいことを全力でやった方が良い。
同感です。失敗を恐れず、自分の信ずる道を! やらなくて後悔しないように・・・。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
この学説の真偽はともかく、このように表現されると「いかにも!」と思わせられます。これはおススメです。
>イエスの最後の言葉の意味するところは、私の中では何回読んでも聴いても謎です。
言語の難しいところで、おそらくヘブライ語を完璧に理解できないと読解できないのかもしれませんね。そもそもヘブライ語→ドイツ語の訳にミスがあるかもしれませんし、ましてやそれを日本語にするとなると本来の意味することとは大いに乖離していることも考えられます。礒山氏といえどもヘブライ語までは完璧に操れないと思いますので、こういってはなんですが、学者の意見は参考になっても間違いないとは言いきれません。特に宗教関係のことは外側から云々するのは難しいと思います。
>死に勝った人は誰もいない
みこころが天で行なわれるように、
地上でも行なわれますように
この言葉について、僕の勝手な解釈ですが、
人間は皆「死」というものが自分の最後なんだと思い込み、それを恐れるようになりました。その恐怖から他者と争うことを学び、自分が生き残るために相手を殺すこと、戦争を始めました(まさに「2001年宇宙の旅」でヒトザルが「智慧」をもち、武器により殺戮を始めた瞬間がそれです)。
そもそも死に勝ち負けなどなく、誰にとっても必然であり、恐れるに足りないものだということを1行目で表し、
「魂」の存在だけになる天上の世界では、身体というものがない以上「すべてが一つ」であり、そういう状態を地上でも創出できるように人間一人一人が「自然」を意識し、そして他者に意識を向け生きよという深い意味が次の行に込められていると考えます。
「神」も「仏」も外に在るのではなく、自分の内に存在するものです。そして、自分にではなく他者に意識が向いている状態(他者に想いを持てている状態)こそが「自分軸をぶらさない」ポイントであり、「ぶれない自分軸」をもてた瞬間こそがある意味究極の「神」状態なのではないかと考えます。
例えば、数年前、東京の新大久保駅で、ホームから転落した人を助けようと韓国人男性と日本のあるカメラマンが飛び込み、結局3人とも亡くなりました。彼らはその瞬間そんなことを意識はしていないと思いますが、「死を恐れていなかった」でしょうし、まさにその瞬間「内なる神」が開眼したのではないかとも思うのです。僕など、おそらくびびってしまってそんなふうにはできないと思います。残念ながら神の域にはまだまだほど遠いです。(苦笑)
やはり、自分を受容し、自分を本当に信じれるようになったとき、いろいろと変化が起こるんでしょうね。言うは易し、行うは難しですが。

返信する
雅之

>「神」も「仏」も外に在るのではなく、自分の内に存在するものです。そして、自分にではなく他者に意識が向いている状態(他者に想いを持てている状態)こそが「自分軸をぶらさない」ポイントであり、「ぶれない自分軸」をもてた瞬間こそがある意味究極の「神」状態なのではないかと考えます。
素晴らしいご意見で、心底共感いたしました。
そして、また新たな疑問が膨らみました。
我々が普通に当然のこととして行っている、神頼みなど、宗教に自分や家族・会社などの現世利益を求める利己的な行為は、根本的に間違いで邪道なのではないかと。
だから、人類の歴史上、絶えず宗教が原因で戦争が起きるのではないかと・・・。
※上記コメントで、「福音書記者」を「副音書記者」とタイプ・ミスしました。
尊い聖書からの引用でしたので、訂正いたします。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
雅之さんの疑問、その通りだと思います。
いわゆる「宗教」になった途端に「自分たちとそれ以外」という概念が働きますからね。「どちらが正しいか?」という戦いに陥ってしまいます。本当はどちらも間違っているし、どちらも正しいんだと思います。
本来「神頼み」とは自分を律することでしょうね。

返信する
たんの

2年目のスタート、おめでとうございます!
ところで、以前お知らせしましたNPO本やっとのことで刊行されました。
「図解NPO経営の仕組みと実践」この中で私は、自己受容と他社受容
についてもふれています。よろしければ読んでいただければ幸いです。
amazon・ビーケーワン・紀伊國屋書店等で、販売されています。
この歳になっても、やりたいことをやっていて、いいのかナーと。

返信する
岡本 浩和

>たんのさん
こんばんは、ご無沙汰しております。
本やっと出ましたか!
「自己受容と他者受容」についても書かれてあるところがこれまたミソですね。ぜひとも読んでみます。
>この歳になっても、やりたいことをやっていて、いいのかナーと。
年齢じゃございません(笑)。いくつになっても「やりたいことをやっている」方は魅力的です。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む