グールドのベートーヴェン「月光」ソナタ(1967.5.15録音)ほかを聴いて思ふ

たとえ作為的であろうと、その演奏には熱がある。
どんなに反抗的な解釈をしようとも、その演奏には愛がある。
彼が、一般的でないエキセントリックな解釈を施せば施すほど、おそらく彼の力量がその解釈を超え、別の意味での普遍性を獲得するのだから面白い。
グレン・グールドのベートーヴェン。
指定より随分速かったり、遅かったり、テンポは揺れに揺れ、それを聴く僕たちに想定外のカタルシスを喚起する。

久しぶりに耳にした「熱情」ソナタの、堂々たる解釈に、今の僕はとても納得する。
一音一音を大事に、噛みしめるように始まる第1楽章アレグロ・アッサイは、グールドの真骨頂。また、第2楽章アンダンテ・コン・モートの、あまりに遅く深沈たる音調は、彼自身「広がりを欠く」とするものの、実に永遠を思わせるもの。まるで時間を超える魔法だ。さらに、終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ―プレストの、特に左手低音部の意味深く高尚な響きに大いに感化される。
グールドは本心では「熱情」ソナタを愛しているようだ。

ベートーヴェンは生涯のこの時期、動機の経済性に専念していただけではない。かれはベートーヴェンであることにも心を砕いていた。“熱情”には、自己中心的な尊大さがある。「わたしがあれを再利用して首尾よくやれないかどうか、目にもの見せん」といった傲慢な態度がある。
ティム・ペイジ編/野水瑞穂訳「グレン・グールド著作集1―バッハからブーレーズへ」P89

人は自分の経験したこと、自分の内側にあるものでしか他者を見ることはできない。すべては自分の鏡なのである。だとするならば、グールドのこの言葉は、ほとんど自分自身の演奏に対する評と一致するだろう。ベートーヴェンの作品を通して彼は愛する自身の内なる尊大さと傲慢さに向き合っているのである。だからこそ、グールドの演奏には(ナルシスティックといえども)愛が感じられるのだ。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」(1966.4.18&19録音)
・ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2「月光」(1967.5.15録音)
・ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」(1967.10.18録音)
グレン・グールド(ピアノ)

一方の「月光」ソナタをグールドは認める。
それでいて、演奏はいかにもグールドらしくそっけない。

「ソナタ」作品27の2(いわゆる「“月光”ソナタ」)は、表面的には異質な3楽章から成るが、直感的に組織された名作である。
~同上書P87

第1楽章アダージョ・ソステヌートのテンポは速く、第2楽章アレグレットも卒なくあっという間に過ぎてゆく。白眉は猛烈なスピードの終楽章プレスト・アジタート!!音楽は想像力に任せてあまりに遠くまで飛翔する。

勇気、からだがどんなに弱っていようとも精神で打ち克ってみせよう。25歳、それは男たるすべてがきまる年だ。悔をのこしてはならぬ。
(1795年12月)
小松雄一郎訳編「ベートーヴェン音楽ノート」(岩波文庫)P8

若きベートーヴェンの勇気によってすべてが生まれたであろうことに感謝。
おそらくグールドも同じ年代の頃、同様の心境にあったのではなかろうか。
何という相乗効果!!何という熱量!!

 

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