クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管のブルックナー交響曲第9番(1970.2録音)を聴いて思ふ

オットー・クレンペラーのブルックナーは、とても人間的だ。
重心の低い、どっしりと揺るがない造形が、ともすると宗教的で崇高な印象を喚起するが、じっくり聴けば聴くほど、内側から湧き出るパッションと、血の沸き立つ豪快なパワーに圧倒される。
ちなみに、逆の意味で、(人間世界を超えた)崇高な宗教体験のようだったのが、2000年11月のギュンター・ヴァント最後の来日公演での交響曲第9番。第1楽章コーダの、あれほどの昇天するような幻視(幻聴?)体験は後にも先にもない。

かつて吉田秀和さんは交響曲第9番を評して次のように書いた。

ブルックナーという人は本当におかしな人で、第七交響曲を書いたときは、それをバイエルン国王のルートヴィヒ二世に捧げた(実際はヴァーグナーの遺霊に捧げたのだが、ルートヴィヒ二世がヴァーグナーのパトロンだったというよしみでそうしたのかもしれないといわれる)。次の「第八」は王様より一段上の皇帝、つまりオーストリアのフランツ・ヨーゼフ一世に捧げた。そうして「第九」はその上のもの—dem lieben Gott(愛すべき神)に捧げたのだった!
「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P129

吉田さんの推論はわからないでもない。しかし、恐らく作曲者にそんな意図はなかったはず。1896年10月11日に命を終えたブルックナーが、確かに死の直前まで終楽章の完成を急いでいたことは事実だが、残念ながら(?)交響曲第9番は、あの美しくも内容濃い緩徐楽章で終わる未完成作品として遺された。

同じく吉田さんは言う。

私が今ブルックナーの「第八」ではなくて、「第九」をより高く評価しているのは、そうして事実、このほうをより好んできくのは、「第八」の世界の緊張感の強さ、その完成度の高さが、「第八」を作品として、一つの閉ざされた—すごく、前例をみないほど巨大な規模をもったものであうにはちがいないが—世界をつくりあげたものにしているのに対して、「第九」は開かれた世界のまま、終わってしまっているからである。「第八」にみられる自己充足性に対し、「第九」には、より高いものへの信頼にうらづけられた解放的な性格がある。
~同上書P130

何とうまい表現であろうか。

・ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(ノヴァーク版1884年稿)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1970.2.6-7&18-21録音)

巨大な第1楽章が素晴らしい。重厚な第2楽章スケルツォもだ。しかし、最晩年のクレンペラーの残した、27分超を要する終楽章アダージョの、それこそブルックナーの(または指揮者本人の)辞世の句のような柔らかく、神がかった音楽は一層感動的。あまりにゆっくりのテンポでありながら、着地点のぶれない堅牢な造形がミソなのだと思う。

11日はよく晴れた秋の日曜日だった。気分が良くなったブルックナーはベッドを離れて美味しい朝食を摂り、ピアノに向かって「第九」のフィナーレに取り掛かった。午後の3時頃、突然寒気を覚えてカティに茶を注文し、カティの娘と看護婦に抱えられてベッドに横になった。本館の礼拝堂では定時の礼拝が行われていた。カティが茶を入れて戻ってくると、看護婦が「急いで!」と連呼した。茶を三度すすって枕に沈み込み、二度大きく呼吸すると、巨匠は静かに息を引き取った。
土田英三郎著「カラー版作曲家の生涯ブルックナー」(新潮文庫)P178

臨終の描写が今眼の前で起こっているかのように生々しい。
交響曲第9番ニ短調は、「未完成」であるがゆえのバランスがいかにも人生を表すようで興味深い。
アントン・ブルックナー、121回目の命日に。

 

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