シュミット、ヘーバルト&シフのモーツァルト三重奏曲K.498(1995.1録音)を聴いて思ふ

便りのないのは良い便り、というけれど。
1786年は、父レオポルトが亡くなる前年だが、この頃は仕事の忙しさに加え、父との意思疎通がうまくゆかず、手紙のやり取りが極端に減る時期で、ヴォルフガング・アマデウスの心情というのはどういうものだったのか、いまひとつつかみにくい。
当時のレオポルトの、ナンネルへの手紙には次のようにある。

今日は、お前の弟からの手紙に返事を書かなければならなかった。それが、長々と書く羽目になったので、お前にはほんの少ししか書けない。もう晩いし、今は休みでもあり、ヴィーンへの手紙もやっと済ませたところだから、今日も劇場へ行くつもりだ。非常にきっぱりとした手紙を書かなければならなかったことは、お前には容易に察しがつくだろう。ほかでもない、あれの二人の子供を預かって欲しいと申し入れて来たのだ。謝肉祭の途中からドイツを通ってイギリスへ旅をしたいためだなどと言う。しかし私はきびしく書いた。
(1786年11月17日付、ザルツブルクのレオポルトからザンクト・ギルゲンのナンネル宛)
柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(下)」(岩波文庫)P118

必ずしも子どもを預かってもらえなかったことだけが理由ではないらしいが、結果的にヴォルフガングがイギリス行きを断念したのは、晩年の父とのある意味確執から生じた精神的不安定が原因ではなかったのか?ヴォルフガングは何にせよ父には真っ向から抗うことはできなかったのである。良い子のヴォルフガング・アマデウス。

そんな抑圧と解放が拮抗する、絶妙なバランスの中にある音楽が、ちょうどこの頃に生み出された、すなわちケッヘル480番台からケッヘル510番までに創造された作品群なのだと思う。ウィーンでは様々な出逢いがあり、そしてモーツァルトは大いなる音楽的挑戦を図っていた。

有能な弟子であったフランチェスカ・ジャカンのために書かれたという「ケーゲルシュタット・トリオ」を聴いた。

モーツァルト自身の楽器による三重奏曲集
・ピアノ三重奏曲変ロ長調K.502(1786)
・クラリネット三重奏曲変ホ長調K.498「ケーゲルシュタット・トリオ」(1786)
・ピアノ三重奏曲ホ長調K.542(1788)
アンドラーシュ・シフ(フォルテピアノ)
塩川悠子(ヴァイオリン)
エーリヒ・ヘーバルト(ヴィオラ)
ミクローシュ・ペレーニ(チェロ)
エルマー・シュミット(クラリネット)(1995.1録音)

特筆すべきは、モーツァルト自身が所有したピアノフォルテやヴァイオリンを使用していることだろう。古楽器が示す軽々とした音調が、かえって当時の彼の暗澹たる面持ちを表すよう。しかし、どんなときもモーツァルトはモーツァルト。
翳の中に一条の光の射す瞬間あり、また逆に、光をことさらに遮る雲もある。

そう、秋雨の続くこういう時期にこそ相応しいケーゲルシュタット・トリオ。
クラリネット、ヴィオラ、そしてピアノという特殊な編成の三重奏曲は、やはり哀愁こもるクラリネットの調べが肝。シュミットのふくよかな吹奏が魂を癒す。
愉悦の塊のような第3楽章ロンド—アレグレットで悲しみが炸裂する。何て素晴らしい、何て美しい。

なるほど、モオツァルトには、心の底を吐露するような友は一人もなかったのは確かだろうが、もし、心の底などというものが、そもそもモオツァルトにはなかったとしたら、どういうことになるか。心の底というものがあったとする。そこには何かしらある和音が鳴っていただろう。それはたとえば恋人の眼差にある楽句が鳴っているのと同断であり、二つながらあの広大な音楽の建築の一部をなしている点で甲乙はない。そういう音楽を世間にばら撒きながら生きてゆく人にとって、語るべき友がいるとかいないとかいうことが何だろう。ということは、たとえ知己があったとしてもモオツァルトは同じような手紙しか遺さなかっただろうということだ。彼は、手紙で、恐らく何一つ隠してはいまい。
小林秀雄「モオツァルト」(角川文庫)P37

小林秀雄はいかにもうまいことを言う。
父は開けずとも姉ナンネルや、少なくとも妻コンスタンツェにはどうだったのだろう?

 

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