アルゲリッチ&ラビノヴィチのモーツァルトK.501ほか(1993.12録音)を聴いて思ふ

「アンネの日記」完全版を読んでいて思うのは、わずか14歳の少女が想像を絶する困難な状況にありながら、人間関係にまつわる様々な体験を通じて、短い期間で驚くほど成長していること。苦悩あり、また楽観あり。性にまつわる赤裸々な話題もあれば、ペーターとの小さな恋の憧憬もある。「隠れ家」という窮屈な生活の中で、希望を捨てずに未来を前向きに思い描く天真爛漫さに心を動かされる。
「ほんとうの幸せって何?」
アンネは、真の幸福とは何かということを僕たちに問いかける。切羽詰まった状況であるがゆえの内観とでもいうのか。

それにしても、おととしごろのわたしは、あれほどいろんな点で恵まれていたのにもかかわらず、必ずしも幸福ではありませんでした。ちょくちょく寂しさを感じることもありましたが、それでも、一日じゅうとびまわり、遊びまわっていましたから、あまりそのことを考えることもなく、せいぜい毎日を楽しんでいました。意識してか、無意識にか、冗談でむなしさをまぎらそうとしていたんです。
(1944年3月7日、火曜日)
アンネ・フランク/深町眞理子訳「アンネの日記」(増補新訂版)(文春文庫)P362

これほど深く自分を見つめざるを得ない状況であったがゆえの進化であり、深化。
何だか、モーツァルトの苦悩と、彼のそこからの解放と浄化にとても似ているように思うのだが、しかし、アンネには(女の子であるせいか)モーツァルトのような道化はどうしてもできなかったみたい。

現在のわたしは、人生について真剣に考えていますし、生涯の一時期が永久に終わってしまったこともさとっています。あののんきな学校生活は過去のものとなり、二度ともどってきはしないでしょう。さしてそれらをなつかしく思うこともありません。そういうものは卒業してしまいましたから。真剣に物事を考えている自分がつねに存在するので、屈託なく道化役を演じることも、もはやできません。
~同上書P363

モーツァルトの手紙にも出てきそうな表現。
彼の音楽に、明るくて暗く、暗くて明るい永遠の美しさがあるのは、お道化ながらも「人生について真剣に考えていた」からではないだろうか。

アンダンテと変奏曲ト長調K.501。1786年11月4日完成。とても可憐で極めて純粋な音楽。
なぜ連弾でなければならぬのか。孤独を癒すためなのか。それとも協同の喜びを知ってもらおうとしたからか。アルゲリッチとラビノヴィチが、1台のピアノの上でひとつになる奇蹟。あるいは、4手のためのソナタハ長調K.521の、特に終楽章アレグレットに見る愉悦。僕の語彙力では、こういう月並みな言葉しか出てこないのだが、おそらく苦悩も楽観も内包したモーツァルトの心の吐露がこれらの内側には流れているのだと思う。

モーツァルト:2台と4手のためのピアノ作品集
・2台のピアノのためのソナタニ長調K.448(375a)
・4手のためのアンダンテと5つの変奏曲ト長調K.501
・4手のためのピアノ・ソナタハ長調K.521
・4手のためのピアノ・ソナタニ長調K.381(123a)
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
アレクサンドル・ラビノヴィチ(ピアノ)(1993.12録音)

モーツァルトは自らを厳しく内省した。
そして、外の世界についても想像以上に客観視し、冷静に見ていた。おそらくその無意識のバランスが、彼の音楽を究めて透明なものに仕上げているのだと僕は思う。

ぼくが怠け好きだなんて思わないでください。そうではなくて仕事好きなんですから。―ザルツブルクでは、そう、確かに怠け者でした。仕事はぼくにとって努力を要しました。なぜかって?―ぼくの心が楽しんでいなかったからです。ザルツブルクでは楽しいことなんて、ひとかけらもなかったんですから、―大多数の連中にとっては、ぼくなどは屑みたいなもんですよ。―ぼくの才能には、なんの励ましにもなりません!―ぼくが演奏したり、ぼくの作品が演奏されたりするとき、聴衆はまるでただのテーブルか椅子みたいなものです。
(1781年5月26日付、モーツァルトからレオポルト宛)
高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P288

ここには人生を謳歌するヒントがある。
「ぼくの心が楽しんでなかったから」というフレーズが肝。
人生は楽しまねば・・・。やりたいことをやらねば・・・。窮屈な檻から出なければ・・・。
もしもアンネ・フランクがもっと生きることができていたなら・・・、と僕は思わず空想する。

おととしから今年、1944年までのわたしの生活を、いわば強力な拡大鏡を通してながめてみると、最初はむろん、もとの家での光輝く日々があり、そのあとここへきてからは、すべてが一変して、日ごとの喧嘩口論、いがみあいとなります。その変わりようがのみこめないわたしは、ただ急な変化に驚くばかり。そして、そのなかで、唯一、方向を見失わずにいるための手段、それがせいぜい意地を張って、つっぱっていることだったのです。
アンネ・フランク/深町眞理子訳「アンネの日記」(増補新訂版)(文春文庫)P363

不自由を知ったからの自由と不幸を知ったからの幸福。
彼女の日記が人々の心に刺さるのは、モーツァルトの音楽同様苦悩があったから。

今年のはじめになると、第二の変化がやってきました。夢です・・・そしてそれとともに見いだしたのが・・・異性へのあこがれ。同性のお友達への、ではなく、異性の友への。さらにまた、自分のなかにある幸福というものも発見し、自衛のためにまとっている軽薄さと快活さという殻。それも自覚しました。
~同上書P364

そして、苦悩や抑圧があったから夢があり希望があったのである。
モーツァルトは美しく、そして深い。

 

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