ツァグロゼク指揮ウィーン放送響のメシアン「アッシジの聖フランチェスコ」(1985Live)を聴いて思ふ

真理は、どのように試みても文字や映像にできないものだが、オリヴィエ・メシアンは共感覚の持ち主であるがゆえの、特別な方法で「目に見えないもの」を描き切ろうと多大な労力を費やした。すべては信仰の賜物である。

そうだ、その通り。これはまた、第1場が〈十字架〉と呼ばれる理由でもある―聖フランチェスコの云う完全な喜びとは十字架のことだ。十字架は、この意味で使うのでなければ恐ろしいものであり、聖痕もまた恐ろしいものだ。
アルムート・レスラー著/吉田幸弘訳「メシアン―創造のクレド 信仰・希望・愛」(春秋社)P163

長大な歌劇の主題はすでに冒頭の景に示されているのだといえる。

時間よ止まれ、お前は美しい。

宗教という枠を超えた、否、「ファウスト」の如く超えることを狙ったのではないかと思えるほどの、永遠の時間の中にある、一定した、乱れのない、そして音調の変わることのない真実の世界を垣間見る。メシアンは、「聖フランチェスコ」において、結果的にキリスト教を超えてしまったのではないかとすら思える。

君はプログラムに書いてあったことに間違いなく気付いている、この作品は犯罪が一切登場しない初めての歌劇であると。我々は暴力の時代に生きていて、報道媒体は暴力沙汰で埋め尽くされ、暴力に関する記事を目にしないで新聞を開けないほどだ。私も暴力沙汰は望んでいない。ところがこれまで、犯罪抜きの演劇があった試しはない。ハーゲンはジークフリートを殺し、ヴォツェックはマリーを殺し、ゴドゥノフは皇帝になるために子供を殺し、ドン・ホセはカルメンを殺す。
~同上書P165

真の平和を希求するメシアンならではの、祈りの景が粛々と続く。
人々の内なる神々を喚起せんと、音楽は時折爆発は見せるもひたすら静謐に順行する。

1985年のザルツブルク音楽祭では、第3景「重い皮膚病を患う人への接吻」と第6景「鳥たちへの説教」、第7景「聖痕」、第8景「死と新生」という4つの景が抜粋で、しかも演奏会形式で上演されたという。このとき、聖フランチェスコを演じたのはフィッシャー=ディースカウ。知性に溢れる彼の歌唱を聴くだけで、清貧の聖人の崇高な姿が目の前に現出するように感じられるのだから不思議。

重い皮膚病を患う人の踊りは、癒された者の喜びだけではなく、もっと大きなものを表現しているからだ。すなわち、二つの奇跡が起こる―病人が癒され、フランチェスコは聖フランチェスコになる。後者は、この二つの奇跡の中でより大きなことだ。フランチェスコは、その瞬間聖人になる。何故なら、彼は重い皮膚病を患う人に腕を回し、その歓喜の踊りは、癒された者よりも大きな歓喜を表わしているからだ。フランチェスコは動かないが、心の内で踊っている。
~同上書P163

実際の舞台に触れずとも、メシアンの言う「フランチェスコが心の内で踊る」様が第3景件の場面において音楽で見事に表現されている点は、見事としか言いようがない。

・メシアン:歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」抜粋(第3景、第6景~第8景)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(聖フランチェスコ、バリトン)
ラシェル・ヤカール(天使、ソプラノ)
ケネス・リーゲル(重い皮膚病を患う人、テノール)
ロバート・ティアー(兄弟マッセオ、テノール)
ジル・カシュマイユ(兄弟レオーネ、バリトン)
セバスティアン・ヴィトゥッチ(兄弟ベルナド、バス)
ジャンヌ・ロリオ、ドミニク・キム、ヴァレリー・アルトマン=クラヴェリー(オンド・マルトノ)
ゲラルド・フロンメ、ケイコ・フロンメ、ハンス・クラッサー(パーカッション)
オーストリア放送合唱団
アーノルト・シェーンベルク合唱団
ローター・ツァグロゼク指揮ウィーン放送交響楽団(1985.8.22Live)

第8景「死と新生」の場の、あまりの神々しさに金縛りに遭う。全編が祈りと解放。
例えば、天使と重い皮膚病を患う人が登場するシーンの静けさとゆるやかさ。

天使の動作は始めから終わりまで緩慢なままで、一方で他の登場人物の動きは、もっと素早くなされる。これは日本の能楽から霊感を得た―私の知る限り、最も美しい演劇形式といえる。だが能楽を理解するには十分な備えが必要だ。能楽について書かれたものを読み、崇高な古の日本語による本文の翻訳に馴れ親しむ必要がある。私は日本語の古文による能楽の台本をすべて持っているし、そのフランス語訳にも親しんでいる。最初の頃、私はこの歌劇を能楽作品のように仕組もうとすることも考えたが、その後で自分自身にこう言い聞かせた―フランス人は理解しないだろう、彼らはあまりにも西洋的だ、西洋風の表現形式を用いざるを得ない、と。
~同上書P174

お経のような静寂の音調は、続く聖フランチェスコの歌唱にも引き継がれる。
なるほど、能楽にインスパイアされ、能舞台を意識しての作りであるならば、これほどの緊張感の意図が良く理解できるというもの。さすがに、フィッシャー=ディースカウは巧い。

実際に音楽は、空間と時間、音と色彩の間で交わされる果てしない対話であり、統一へと導いてくれる対話なのです。時は空間であり、音は色彩であり、空間は重ね合わされた時の複合体であり、音の複合体は色彩の複合体と同時に存在します。
(1978年)
~同上書

オリヴィエ・メシアンの言葉はいちいち深い。

 

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