バーンスタイン指揮ウィーン・フィルのブルックナー交響曲第9番(1990.3Live)を観て思ふ

うなり、咆哮する第1楽章コーダの光輝と祈り。
第2楽章スケルツォは、重戦車の如く遅いテンポで堂々と歩を進める。

まるでマーラーを演奏するときのようにコレステロール過多。
しかし、その演奏は全身全霊かつ唯一無二。
最晩年のレナード・バーンスタインが指揮するブルックナーは、テンポは揺れ、音はうねり、あまりに人間的で、作曲家への偏愛をうかがわせるもの(その証拠に、バーンスタインはブルックナーの交響曲は第9番しか採り上げなかった)。

こういう表現が、果たしてブルックナー的かどうかの問題はあえて横に置く。
ただ、余命わずかの音楽家が(この7ヶ月後に彼は逝去する)、神に捧げられた音楽を最後の力を振り絞って演奏したという事実、そしてそれが映像として遺されたことに僕たちは感謝せねばなるまい。

ちなみに、吉田秀和さんがこの交響曲について言及した小論に次の箇所がある。

短9度の跳躍ではじまるという異常な主題の提示にのぞきみられる不安と悲しみの表情がすでに、巷間に流されひろめられてきた素朴な堅信者ブルックナーという伝説をうのみにすることを、不可能にする。なるほど、ブルックナーは神を信じていたろう。しかし、そのことは彼がすべての懐疑と恐れと不安を排除した安心立命の境地にいたことを保証することからは遠かった。だからこそ、彼は世間から厳しく拒否されても、作曲しないではいられなかったのである。神と創造、これだけがブルックナーの生涯の中心的意味だった。だが、それはこの両者のあいだに矛盾がなかったということにはならない。
「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P133-134

生涯神を希求し、音楽を創造しようとしたにもかかわらず、生まれた音楽はあまりに人間的過ぎたのだと吉田さんは理解するのだろう。バーンスタインは、確かに彼の音楽の内にある「極人間的」側面をあまりにリアルに表現した。

・ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1990.3Live)

特に、第3楽章アダージョは、正統な(?)ブルックナー解釈とはいえず、その粘る音楽はバーンスタイン色濃厚なものだが、それがまた彼の辞世の句の如く響き、身体いっぱいを使って歌う立ち姿と合わせ、心に迫る厳しさを垣間見させてくれる。
それにしても、終演後の長いカーテンコールと、幾度もステージに戻されてはそれぞれの奏者を讃え、抱き合うバーンスタインの姿を見ていると涙が込み上げてくる。

最後の来日公演のプログラムに元々この作品は含まれていた。しかし、公演直前に指揮者の都合で別プログラム(ベートーヴェンのイ長調交響曲とブリテンだったか)に差し替えられた。何よりバーンスタインのブルックナーの実演を聴けることを楽しみにしていた僕にとって果たしてそれは無念の出来事だった。もちろんそれ以上に、バーンスタインが2回の公演を終え、体調不良のため残りすべてをキャンセルし帰国、そのまま帰らぬ人になったことは絶望だったのだけれど。

 

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