サッシャ・ゲッツェル指揮読響第607回名曲シリーズ

中庸の、理想的なテンポで繰り広げられた名演奏。
何より「間」が良い。音と音の間の静寂に侘寂を感じた70余分。
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ,ウン・ポコ・マエストーソから極力音量を抑え、ここぞとばかりに爆発する解釈の妙。それでいて自然な流れを失わず、最後まで純粋無垢の、しかし浪漫溢れる音楽が創造された。

急遽、病気のエマニュエル・クリヴィヌの代役で登場したサッシャ・ゲッツェルの、堂々たる音楽に僕は畏怖の念を覚えた。ベートーヴェン最後の、滔々と流れる音の塊が時に囁き、時に叫びをあげた。俄か仕立てのせいもあるのか、多少アンサンブルの乱れもあったが、創造物の熱気を思えば大した問題ではない。相変わらず読響の各奏者の独奏は巧く、色気の滴るような音色に大いに満足した。

すべては純粋に透明に神より流れ出る。わたしは、激情に駆られて悪に目がくらんだあげく、幾重にも悔悟を重ね、心を洗い清め、最初の、崇高な、清い源泉、神のもとに還った。―そして、汝の芸術に還った。その時には、利己心に迷うことはなかった。いつの時もそうあれかし、果実がなりすぎれば、枝はたわむ。爽快な雨が満つるとき雲は低くたれる。そして人類の善行者は、富を誇りはしない。
ベートーヴェン/小松雄一郎訳編「音楽ノート」(岩波文庫)P46

ベートーヴェン晩年の、インド哲学書からの抜粋は、当時の楽聖の謙虚さを物語る。
何事も、過ぎたるは及ばざるが如し。その意味で、クリヴィヌに代わってゲッツェルの棒は理想的だったのかもしれない。

読売日本交響楽団第607回名曲シリーズ
2017年12月20日(水)19時開演
サントリーホール
インガー・ダム=イェンセン(ソプラノ)
清水華澄(メゾソプラノ)
ドミニク・ヴォルティヒ(テノール)
妻屋秀和(バス)
新国立劇場合唱団
長原幸太(コンサートマスター)
サッシャ・ゲッツェル指揮読売日本交響楽団
・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」

久しぶりの「第九」。わかっていても興奮する名曲が、予想以上に素晴らしく奏された時の感激。今宵僕が感じたのはその種の感動だった。

第2楽章モルト・ヴィヴァーチェの灼熱。幾分テンポを速めにするトリオの美しさ。白眉は第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレ!第2ヴァイオリンが第2主題を奏で始めたときのハッとする恍惚と、最後の金管による警告の深み。どこをどう切り取っても、まさに「純粋に透明に神より流れ出る」ひととき。
終楽章プレスト―アレグロ・アッサイはとても素晴らしかった。例えば、低弦による「歓喜の主題」直前の、絶妙な間合い。”Vor Gott”は長からず短からず、合唱も壮絶なうねりをあげていた。あるいは、コーダ直前の一瞬の祈りの体に感激。そして、突進するコーダは、あっと驚く見得の切り方が象徴する、圧倒的終結!!

いやはや、期待以上の「第九」。
というより、僕はやっぱり今時の「ピリオド風解釈の快速」演奏は不得手であることがわかった。たまに聴く「第九」のカタルシス。人類は間違いなく兄弟なのだとあらためて思う。

 

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