シャハム&ブーレーズ指揮シカゴ響のバルトーク協奏曲第2番(1998.12録音)を聴いて思ふ

ごく普通の態度でも、それを好意的に受け止める人もいれば、批判的に思う人もいる。父は頑固な人として知られていた。誰かが言ったように、もう少し融通がきいたら、この世であれほど苦労をしないで済んだかもしれない。ナチスの動きを耐え難いほど嫌悪しなかったら、新しい世界に移り住む困難を避けられたかもしれない。だが、こう問うこともできる。もし父が頑固でなかったら、父の曲は同じものだっただろうか?
ペーテル・バルトーク著/村上泰裕訳「父・バルトーク―息子による大作曲家の思い出」(スタイルノート)P237

すべては是非なく、個性ということ。彼の世渡りがうまければ、もっとポピュラーで保守的な作風の作品になっていたのだと思う。アルバン・ベルク同様、黄金律や数秘の応用など、極めて知的かつ官能満ちる、民族色豊かでありながら(当時としては)前衛的な音楽に底流する愛、それが1世紀近くを経た今も聴き継がれるのだから、僕たちは感謝した方が良い。

バルトークの音楽は、東洋と西洋の両文化が絶妙にふれあい融合するその境目に生まれたものだ。内面のエキゾチックな耳障りと、外面の磨き抜かれたフレームの美しさ。例えば、ヴァイオリン協奏曲第2番。音楽上のあらゆる語法を駆使して、有調と無調の間を巧みに行き来する、奇蹟の変奏。大袈裟だけれど、聴き込めば聴き込むほどこの曲は僕の心の裡で巨大になって行く。

バルトーク:
・ヴァイオリン協奏曲第2番Sz.112
・ヴァイオリンと管弦楽のためのラプソディ第1番Sz.87
・ヴァイオリンと管弦楽のためのラプソディ第2番Sz.90
ギル・シャハム(ヴァイオリン)
ピエール・ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団(1998.12録音)

かつて血気盛ん、泣く子も黙る前衛の旗手であったピエール・ブーレーズは、後年精彩を欠いたという説もあるが果たしていかに。少なくとも僕は、ブルックナーやマーラーを振り、多少の浪漫の塵を取り込んだ彼の音楽が好きだ。それは、決して寝ぼけた音楽などではない。あくまで作曲家に寄り添い、楽譜を徹底的かつ客観的に読み込んだ末に行き着いた赤銅色の音楽だ。

若きギル・シャハムのヴァイオリンは端整で、また甘い音色を醸す。第1楽章アレグロ・ノン・トロッポ冒頭、ヴァイオリンの入りから誠心誠意の音楽が奏でられる。そして第2楽章アンダンテ・トランクィロの神秘的な音調は、戦争色に染まりゆくヨーロッパ世界をまもなく後にしなければならないだろう作曲家の祈りであり、シャハムのユダヤの血が騒ぐように中は熱い。さらに、終楽章アレグロ・モルトの舞踏の一瞬一瞬の零れ落ちるニュアンスに彼のテクニックの確かさを確認する。それにしても、音楽を支えるシカゴ交響楽団の巧さ。

もうひとつの問題は、私は(移住できるかどうかではなく)移住すべきかどうか、ということです。いろいろな考え方があるでしょう。去り得る状況にあるのに、それでもここにとどまっているなら、その人はここで起こっている全てのことについて無言のうちに同意していると見なされても仕方ないでしょう。(中略)他方、祖国がどんな泥沼に陥ったとしても、そこにとどまり、できるかぎりの努力をするのが国民の義務だ、という見方もあります。問題は、この先そんな努力が、はたしていくらかでも実りをもたらすかどうか、ということです。ヒンデミットは、ドイツで5年間努力してみましたが、結局なんとかできるという自信を失ったようです。私はといえば、まったく自信がないとしかいえません。
(1939年6月3日付手紙)
伊東信宏著「バルトーク―民謡を『発見』した辺境の作曲家」(中公新書)P179-180

バルトークに亡命の決断を促したのは、ナチスによる欧州支配やこの年の母の死だといわれる。しかし、それ以上に大きかったのが、滞っていた民俗音楽研究の仕事の再開と充実を合衆国の地に期待したことにあるようだ。融通の利かない自己中心的な彼にとって、やはり仕事が第一だったのだと思う。

ピエール・ブーレーズ死して早2年。

 

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