クナッパーツブッシュ指揮バイエルン国立管のブルックナー第9番(1958.2.10Live)を聴いて思ふ

昨年のコンサートで最も衝撃的だったのは、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮読響のブルックナー第5番。改竄版として長らく批判の矢面に立たされたフランツ・シャルクの改訂による問題の版は、実演においては(編曲者の想定通り)聴き応えのある、壮大なものであり、それを老練のロジェストヴェンスキーの棒が、指揮者独自のアレンジを加えながら悠久のテンポで表現するものだから、本当に時を忘れて没頭した、そんなひと時だった。
こうなっては、同じく悪名高いフェルディナント・レーヴェの改訂による第4番や第9番の生演奏に触れてみたいと思うのが世の常。

いわゆる改訂版の一番の特長は、漸強、漸弱の妙と、強烈なティンパニの轟き。
いかにもブルックナー的でない、後期ロマン派風の方法は、もちろん賛否両論なのだが、少なくとも実演であるなら、かなり興味深いものが繰り広げられるのではないかという期待もある。何より改訂魔アントン・ブルックナーの深層が垣間見られる、俗っぽい響きが何とも愛らしいのである。

クナッパーツブッシュはブルックナーの交響曲に、精神的な力のようなものが宿っていると考えていました。そしてその広大な世界を、悠々とそびえ立つような音響の中に呼び出すことができたのです。
フランツ・ブラウン著/野口剛夫編訳「クナッパーツブッシュの想い出」(芸術現代社)P99

あまりに人間的な、濃淡のある演奏は、宗教的、崇高な響きである原典版を拒否するだけの無理強いの力の上に成り立つものだったのだと思う。異形のブルックナー第9番を聴いた。

・ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(フェルディナント・レーヴェ改訂版)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイエルン国立管弦楽団(1958.2.10Live)

怒涛の第2楽章スケルツォがうなる。また、敬虔な終楽章アダージョの違和感甚だしい編曲には、師への相当な愛情がこもり、クナッパーツブッシュの再現がそのことを見事に言い当てているようで、実演で聴いていたらさぞかしと思われる緊張感に満ちる。あまりのクレッシェンド&デクレッシェンドの激しさは、原典版に慣れた耳には煩わしさも残ろうが、終演後の観客の畏怖に満ちた拍手を聴くにつけ、クナッパーツブッシュのブルックナーはやっぱり特別だったのだと悟る。

なぜなら、クナッパーツブッシュは、改訂版がブルックナーにとっての究極の版であり、この版だけを演奏し続けることをブルックナー自身が望んでいたと考えていたからです。もちろんそれが理由の全てではありません。徹底したロマン主義者であるクナッパーツブッシュは、個人としてもこの改訂版に大変親しんでいました。
~同上書P97

ブルックナー自身が望んでいたのか、いなかったのか、実際のところは永遠にわからない。
音楽は生き物だ。そこにはゆらぎがあり、鼓動があり、欠落がある。あくまで記号である譜面が不完全なものであるならば、解釈は無限。ひとつの形としての「改訂版」の存在意義は大いにあろう。レーヴェ改訂による第4番や第9番は、ロジェストヴェンスキーがやらねば誰がやる。元気なうちに、是非とも演っていただきたい。

第1楽章コーダの凄まじさ。

 

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