純真

mendelssohn_symphonies_orpheus.jpg若くして才能を開花させた人たちにも苦しみはあろう。いや、ひょっとするとそういう人たちは、そんなことを感じてもいないかもしれない。グレン・グールドやマイケル・ジャクソンの話題から、そして最近読んで感心した堀明子さんやアリアーガなど夭折の芸術家の作品などに触れながら、いわゆる「天才」といわれる人々の日常の苦悩について考えた。

昔、僕がまだイベント・プロデューサーとして駆け出しの頃、今は亡きヴァイオリニスト数住岸子さんをソリストに迎えて、山形響だったか仙台フィルだったかのコンサートを彼の地で企画し、何日か随行したことを思い出した。ブルッフだったかシベリウスだったか、曲目はすっかり忘れたが、ともかくゲネプロでの数住さんの奏でる音楽は滅法美しく、研ぎ澄まされたそのヴァイオリンの音色に卒倒するような感覚を覚えたものだ。もちろんその夜のコンサートは大成功だった。

打ち上げで会話を交わした彼女の印象は、良く言えば子どものように純真で、悪く言えば非常識というものだった。翌朝、確か朝食も共にしたように思うのだが、食事の作法などをみると決して品の良いものではなかったことに愕然とした。それを見て僕は「ああ、この人はヴァイオリンを弾くこと以外は何もできないんだ!」などと感じたものだ。その数住さんもその後間もなく癌か何かで若くして亡くなった。彼女にも苦悩というものがあったのだろう。そんな面はもちろん僕らには絶対見せないが・・・。

朝から蒸し暑い。教え子の結婚披露宴に招ばれ、二次会まで参加した。
新郎からのメッセージは「今日は来てくれてありがとうございます。岡ちゃんへの感謝は語り尽くせません。就活に始まり、◎△時代、転職相談などなど、節目節目で本当にお世話になりました。今後も末永くご指導お願いします」というもの。二次会で乾杯の音頭を執らなければならなかったので、その際「僕の方こそ逆にお世話になった」旨を伝え、感謝の念を表した。そう、指導なんておこがましい。僕の方こそ若者たちにこれまで散々助けていただいている。こちらこそありがとう、である。

目出度い日に暑気払いの意味も込め、メンデルスゾーン。彼も夭折の天才といえるのだろうか・・・。12歳~14歳の頃に書いた弦楽のための交響曲。

メンデルスゾーン:弦楽のための交響曲集
・第8番ニ長調
・第9番ハ長調
・第10番ロ短調
オルフェウス室内管弦楽団

特に、14歳時の第9番は、デモーニッシュな序奏部と、軽快で爽やかな主部との対比がとても少年の内面から創出されたものとは思えない「非凡さ」を感じさせてくれる。弦楽のための交響曲は、当時毎日曜日に開催されていたメンデルスゾーン家での「日曜音楽会」のために書かれたようだが、遊びたい盛りのフェリックスにも「苦悩」はあったはず・・・。


7 COMMENTS

雅之

おはようございます。
昨日のコメント欄での話題の続きを・・・。
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/post-462/index.php#comment-2937
私は、人間としてのグレン・グールドや、マイケル・ジャクソンのことを、尊敬こそすれ、岡本さんや畑山さんのように「?」と感じたり、「あまりにも哀れな死に方」だなんて、これっぽっちも思ったことはありませんよ。
そんなことを言ったら、モーツァルトも、ベートーヴェンも、シューベルトも、シューマンも、ショパンも、メンデルスゾーンも、ブラームスも、ブルックナーも、マーラーも、齋藤秀雄も、滝廉太郎も、数住岸子も、コルトレーンも、ジャズやロックの多くの方々も、ゴッホも、ムンクも、正岡子規も、画家の多くの方々も、宮沢 賢治も、金子 みすゞも、堀明子さんでさえも、世の中から超一流と評価を得た芸術家の多くの人生は、我々一般の凡人には「?」であり、「あまりにも哀れな死に方」ですよ。じゃあ、なぜグレン・グールドやマイケル・ジャクソンをだけを、あなたがたは特別視するのですか? 常軌を逸した多くの一流芸術家の人生の中では、ごくごく普通じゃないですか?
何不自由なく生活している一般常識をわきまえた我々が、異なる世の中の感じ方をし、芸術創作に身を削った彼らを、「?」とか「あまりにも哀れな死に方」とか「悲惨」とかいうって、そりゃあ芸術家に失礼ってものでしょう。金持ちが貧乏人を嘲笑う以上に、趣味悪過ぎです。
「あまりにも哀れ」とか「悲惨」は、我々の人生もお互い様、だから私達は彼らの創った芸術作品や演奏に慰められるんではないですか?
でなければ、逆に我々の人生が幸せなのであれば、彼らの人生は、作品を世に残したという意味において、もっともっと「幸せ」だったに違いありません。そして「幸せ」だったか、「不幸」とか「哀れ」「悲惨」だったかは、他人ではなく自分が決めること。
もし、私や岡本さんや畑山さんの死後、後世の人に、「?」とか「あまりにも哀れな死に方」とか「悲惨」とかと勝手に言われたら、腹が立つでしょう、君に私の人生の何がわかるんだって・・・。
そして、芸術家は、あくまでも人間よりも作品で評価するべきなのです。
久々に十八番を、一発カラオケで歌いたくなりました。はい、拍手拍手!!
    「浪 花 恋 し ぐ れ」
作詩 たかたかし  作曲 岡 千秋
       昭和58年
1 芸のためなら 女房も泣かす
  それがどうした 文句があるか
  雨の横丁 法善寺
  浪花しぐれか 寄席ばやし
  今日も呼んでる 今日もよんでる
  ど阿呆 春団治
 「そりゃわいはアホや 酒もあおるし 女も泣かす
  せやかて それもこれも みん芸のためや
  今にみてみい!わいは日本一になったるんや
  日本一やで わかってるやろ お浜
  なんや そのしんき臭い顔は 酒や!酒や!
  酒買うてこい!」
2 そばに私が ついてなければ
  なにも出来ない この人やから
  泣きはしません つらくとも
  いつか中座の 華になる
  惚れた男の 惚れた男の
  でっかい夢がある
 「好きおうて一緒になった仲やない
  あんた遊びなはれ 酒も飲みなはれ
  あんたが日本一の落語家になるためやったら
  あてはどんな苦労にも耐えてみせます」
3 凍りつくよな 浮世の裏で
  耐えて花咲く 夫婦花
  これが俺らの 恋女房
  あんたわたしの 生き甲斐と
  笑うふたりに 笑うふたりに
  浪花の春がくる
http://8.health-life.net/~susa26/natumero/56-64/naniwakoisigure.html
因みに、私が仕事の大切なお客様との席で歌う場合は、
 「○○商事さん」のためなら 女房も泣かす
  それがどうした 文句があるか
  雨の横丁 法善寺
  浪花しぐれか 寄席ばやし
  今日も呼んでる 今日もよんでる
  ど阿呆 春団治
 「そりゃわいはアホや 酒もあおるし 女も泣かす
  せやかて それもこれも『○○商事さん』のためや
  今にみてみい!わいは『○○商事さん』と日本一になったるんや
  日本一やで わかってるやろ お浜
  なんや そのしんき臭い顔は 酒や!酒や!
  酒買うてこい!」
「?」だあ? 「哀れ」だあ ? 「悲惨」だあ?
べつに
それが何か
他人の人生心配する前に、自分の人生を心配しなさいよ

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
厳しいお言葉ありがとうございます。
「?」と感じようが、尊敬の念を感じようが、どちらにせよ彼らに直接会ったことがない僕たちにグールドやマイケルの人間性についてまでどうのこうのと言及する資格などないのかもしれませんね。僕らが知っている彼らは書籍の上だったり、マスコミによって作られたものだったり、やっぱり「等身大」のものではありません。
それに数岸さんだって、お会いしたのは僕が未熟な25歳頃のことで、その当時はただ1,2回の食事のシーンだけをとって「変わった人だなぁ」と感じたことですから、やっぱりもう少し深く付き合ってみると違った印象を持てたかもしれません。
前々から雅之さんもおっしゃっていますし、僕もそのことについては事あるごとに言及してますので、繰り返す必要もないでしょうが、どんな人間も「不完全」ですから、「哀れ」でもいいと思うのです。そういうことをわかっての「主観」なら、「哀れ」と感じるのも人間らしく、その人らしく、自然体で良いじゃないですか!
という意味では、「尊敬」という言葉も「哀れ」と同じくらい「ぎりぎりの言葉」だと思います。
私は、人間としてのグレン・グールドや、マイケル・ジャクソンのことを、「?」と感じたり「あまりにも哀れな死に方」だと感じこそすれ、雅之さんのように「尊敬する」だなんて、これっぽっちも思ったことはありませんよ。
という人もいてもいいかもですね。
>「あまりにも哀れ」とか「悲惨」は、我々の人生もお互い様、だから私達は彼らの創った芸術作品や演奏に慰められる
>「不幸」とか「哀れ」「悲惨」だったかは、他人ではなく自分が決めること。
これについてはおっしゃるとおりです。
>死後、後世の人に、「?」とか「あまりにも哀れな死に方」とか「悲惨」とかと勝手に言われたら、腹が立つでしょう、君に私の人生の何がわかるんだって・・・。
ただし、少なくとも僕は直接面識がなかった人間が何を言おうと気にはなりません。まぁ、我々凡人が後世の人に何か言われることなどまずありえないですけどね。
>他人の人生心配する前に、自分の人生を心配しなさいよ
それはそうですね(苦笑)。
まぁ、芸術家でも政治家でもビジネスマンでも、有名になったら、一般庶民から仕事には直接関係ない「人間性」まで云々されて持ち上げられたり、落とされたりするじゃないですか。
スキャンダルを肴にして言いたいことを言う、勝手な夢想(妄想?)のようなものです。

返信する
雅之

そうです。芸術の価値基準なんて、その人にとって「好き」か「嫌い」かだけなのだという信念を、ますます強く持ちました。
何だか、勝ち負けのはっきりするサッカーなどのスポーツのほうが、音楽より好きになれるかもです。
そして、音楽なら、どんなに下手くそでも、聴くだけより演奏するほうが健全だなあ。

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岡本 浩和

>雅之様
>勝ち負けのはっきりするサッカーなどのスポーツのほうが、音楽より好きになれるかもです。
そうかもですね。芸術は曖昧です。
>どんなに下手くそでも、聴くだけより演奏するほうが健全だなあ。
グサッ(痛)・・・(笑)。
そろそろ僕も挑戦しなきゃなんですね。

返信する
畑山千恵子

雅之さんのように、作品で評価すべきであることは確かです。しかし、人間として見ると、作品から想像もできない、この人はこんな人だったの、という面は必ず存在します。
ベートーヴェンだって、アントン・シントラー、ロマン・ロランが神様みたいに神格化し、伝記は神話となってしまいました。ベートーヴェンが引き取って育てた甥カールは「ならず者」という汚名は、シントラー、ロランが作り上げたでっち上げでした。権威あるベートーヴェンの伝記を書いたアレクサンダー・ホイーロック・セイヤーはアメリカ人で、シントラーのベートーヴェン伝を読み、あまりにもうそ臭いと感じて、ヨーロッパに渡り、真実のベートーヴェンを伝えようと執筆を始めたものの、未完に終わりました。ドイツ語ではカール・ダイタース、フーゴー・リーマンが補筆、英語ではエリオット・フォーブス校訂で出版、日本では英語版の翻訳がありましたものの、現在、絶版です。
また、20世紀後半、メイナード・ソロモンのベートーヴェン伝はセイヤーを凌ぐ、もっとも権威あるものとなりました。ベートーヴェンに限らず、音楽家の伝記には常に神話化が付きまといます。それはマイケル・ジャクソン、グレン・グールドでも同じことです。
グレン・グールドと女性との関係は今までなぞに包まれていました。ゲイ、セックスには無関心、そうした神話がありました。没後25年の2007年、グールドと恋愛関係にあったルーカス・フォスの夫人で画家コーネリアさんが恋愛関係にあった事実を認めて、インタヴューに応じた記事が日本でも公表され、大変な話題を集めました。私は、この恋愛関係と病気との関係を研究、学会発表で取り上げることにしています。
もっとも、私はこうした仕事をしていますから、人間像にも言及することになります。音楽学とはそうした仕事です。いいとこ取りというわけにも行きません。作品のみならず、人間も扱うことになります。そうした仕事が音楽学なのです。雅之さん、どうぞご理解を。

返信する
雅之

>畑山千恵子様
こんばんは。
ご多忙のところ、私の岡本さんへの乱暴極まりないコメントに、懇切丁寧にお答えいただき、感謝いたしております。
>いいとこ取りというわけにも行きません。
まさにおっしゃるとおりです。100パーセント同感です。いつも岡本さんには、「人間を一般常識でのポジティヴな観点だけで語るのは片手落ちですよ」と、口が酸っぱくなるほど指摘しておりますので(本当にわかってるのかなあ、あの人・・・笑)。
グレン・グールドは人格障害だったとの以前からのご指摘ですが、芸術家や科学者は、精神的に病んでいる人がとても多いようですね(一例を下サイト「精神病と創造性――Psychotic disorder & Creativity 狂気と創造性の関係 ――狂気が優れた作品を生み出す?
」より)。
http://www.asahi-net.or.jp/~tp8t-hskw/psychiatry/pathography.htm
人格障害
Postが291名の世界的著名人を調べたところ、人格障害の基準(DSM-III-R)を満たす者はいなかったものの、人格障害の傾向が見られる者は、作家では90%、科学者では50%弱であったという。クラスター別では、引きこもりがちで臆病といったC群が38.9%と高かった。
精神分裂病
ゴッホ(非定型精神病)、ニーチェ(分裂病)、ヘルダーリン(分裂病)、カフカ(分裂病)、フローベール(てんかん)、ワーグナー、夏目漱石など精神分裂病を患った天才は、枚挙にいとまがありません。ムンク(分裂病)は幻覚そのものを『叫び』に描いています。ドストエフスキーはてんかんの体験を『白痴』に詳しく書いています。迫害妄想に苦しんだルソーは、人権の思想を生み出しました。
 分裂病圏の人は、臨床的な発病前の時期に、「真の存在」との出会いへの強い意志と激しい情熱が認められることがしばしばあります。彼らにとって、創造行為とは死を賭した冒険なのです。創造行為は分裂病の発病状況の一つです。想像の冒険の旅に出る芸術家には、創造行為は自己破壊の危険を覚悟した、果敢な真の存在追究の試みなのです。
 「私が愛するのは、自分自身を超えて創造しようとし、そのために破壊する者だ」――ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』
気分障害
 Jamisonがイギリスとアイルランドの少なくとも一つの賞を取った詩人、小説家、芸術家47人を面接したところ、38%が感情障害の治療歴を持っています。また、軽躁状態(高揚状態)の時に高い生産性が発揮されるようです。芸術家は感情障害のハイリスクを持ち、自殺の危険性が高いと共に、気分障害が創造性の発現に寄与しているようです。
家族歴
 傑出人や偉大な指導者では、親を亡くしている人が多い。養子研究でも、生物学的両親に精神的異常を持った人が多いことから、環境要因よりも遺伝要因の関与が大きいようです。
しかし、
・・・・・・自閉症、アスペルガー症候群などの自閉性障害の総称。先天的な脳機能障害とされる。特徴は、▽他人の意図を読めずコミュニケーションに問題がある▽想像力に障害があり情緒的理解や抽象的思考が苦手▽自分の興味、関心の対象に執着する--など。雰囲気を察知したり、相手の表情から内心を読み取ることが難しく、社会適応に訓練が必要とされる。
 まあ、臆することなかれ。私も立派なアスペルガー症候群の人間だと思っていますから。コミュニケーションをとるのが苦手で、一つのものに興味を示すと徹底的にやらないと気がすまない。まさにアスペルガー症候群そのもの。
 しかし、これを病気(身体障害者)としてしまうには抵抗がある。あの発明王のエジソンはまさに広汎性発達障害であったと言われる。アインシュタインもそうかもしれない。小泉首相とて各新聞で「きちがい扱い」されている。人とコミュニケーションがとれない孤高な人格障害者だと。
 私に言わせれば、世の中のトップに立つ人間=ほぼ人格障害者 である。トップに立つための精神力は、なんびとたりとも、己の上に立つ人間を許さないという執念から生まれる。しかもその執念が異常に強かったからトップになれるわけで、その異常さは正常な人間の精神の偏差値を大きく外れている。だから一代で会社を築き上げて億万長者になる人も「きちがい」であるし、ホリエモンもしかりである。私も自分の精神力を人並みだとは決して思わない。常軌を逸していると思っている。まさに私こそアスペルガー症候群だ。
 己の上に立つ人間を許さないという異常な欲求は、大成功者を排出すると共に、殺人者などの犯罪者をも輩出する。それは容易に推測できるはず。つまり、世の中の犯罪者の大半は、よく分析すると広汎性発達障害の可能性がある。
 すでに社会のルールから外れるほどに、上に立つ者を許さないという精神構造があったからこそ、犯罪を犯したのであって、犯罪者=精神異常、という定義が成り立つ。長崎小6殺害事件の加害者をアスペルガー症候群とし、人を憎まず病を憎めというような風潮にしてしまえば、世間の犯罪者はすべて無罪になる。確かに犯人は小6で女の子ではあるが、だからといって彼女の犯罪を気質的な病気のせいにしてしまい、本人のせいではないという解釈をするのはいいとは思わない。
 エジソンとて人格障害者だったのではないかと言われているように、広汎性発達障害の人間は、大成功を収めることも多い。それなのに、悪いことをした時だけは、病気のせいにしてするのはないだろう。
 成功者=人格障害者 の関連性は昔から言われているが、特にアーティスト達はみんな人格障害者ではないかと私は思う。一つ間違えば犯罪者。そのすれすれの線に近づけるからトップに立てるのである。だから人格障害は悪者でも差別用語でもないと思う。ましてや、特別扱いすることもないのではなかろうか。私とて、ブログの中では 「常人とは思えない逸脱した勘違いをわけのわからぬ持論でつづっている」と批判されることもある。
 その通り。私は常人の思考の枠を完全に超えることができる。そして養老先生もその一人。「バカの壁」を越えられる人なのだ。私から言わせれば、彼も立派なきちがいである。そのきちがいぶりをうまく利用すれば、世の中のトップに立てるのだ。・・・・・・
http://www.fujitanaruhito.com/blog/archives/001582.php
という、例えば藤田徳人さんのご意見に私は全面的に共感します。
もっと言えば、この現代社会こそが病んでいて「人格障害」だとも言えませんか? 彼ら芸術家や科学者こそ健常者で、我々凡人は重症の不感症や痴呆だとしたら?
以前からの文面から察するに、畑山様は、グールドについては音楽性も含めお嫌いのようです。
私もブラームスのことが何故か許せなくて大嫌いなのでお気持ちはよく理解できます。しかし、最近はブラームスよりも、自分は何故ブラームスのことが大嫌いということに、これほどまでに執着するのか、ということに、とても興味があります。おそらく近親憎悪かもしれません。
そういう意味で、ある人間について研究するということは、自分探しの裏返しではないかとも思うのです。
今夜は私の大嫌いなブラームスのピアノ曲を、畑山様がお嫌いなグールドの演奏の録音で聴きながら、サッカーの試合を観ずに、思考に耽りたくなりました(笑)。
今後とも、どうかご教示よろしくお願いいたします。

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岡本 浩和

>畑山様、雅之様
こんばんは。
ありがとうございます。
本当に勉強になります。
こういうやりとりが拙ブログ上でなされることはある意味感無量でございます。
>雅之様
>「人間を一般常識でのポジティヴな観点だけで語るのは片手落ちですよ」と、口が酸っぱくなるほど指摘しておりますので(本当にわかってるのかなあ、あの人・・・笑)。
わかってると思いますよ、多分(笑)。
いわゆる「ポジティブ・シンキング」というものほど信憑性のないものはないと。ただ、僕も若い頃は「ポジティブ・シンキング」に冒されていた時期もありましたから、ひょっとすると当時の癖が完全に抜けていなく、時折そのような言動になってしまうのかもしれません。お許しを。

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