バーンスタイン指揮イスラエル・フィルの自作「セレナード」(1979.8Live)ほかを聴いて思ふ

レナード・バーンスタインがプラトンの「饗宴」を読み返していたときに触発され生み出したといわれる「セレナード」。おそらくこれは作曲家バーンスタインの最高傑作のひとつだ。

エロス、すなわち愛について論議が繰りかえされるプラトンの「饗宴」には、よく知られた箇所、あるいは意味深い箇所がいくつかある。例えば、アリストファネスはかく語る。

第一に、人間の性には三種あった、すなわち現在のごとくただ男女の両性だけではなく、さらに第三のものが、両者の結合せるものが、在ったのである。そうしてその名称は今なお残っているが、それ自身はすでに消滅してしまった。すなわち当時男女(おめ)といって、形態から見ても名称から見ても男女の両性を結合した一つの性があったのである。
プラトン著/久保勉訳「饗宴」(岩波文庫)P83

元々、両性具有という存在が確かにあったということだ。

さて三つの性がしかもこういう形状をなして存在した次第は次のごとくである。すなわち男性は本来太陽から、女性は地球から、また両性を兼備したものは月から―月も地球と太陽との両者に与っているから―出たのである。
~同上書P83

人間が神々に挑戦を果たしてきたことに対し、ゼウスを長とした神々は、人間の凶暴性を失わせるための策を練ったといわれる。それは「彼らを一人残らず真っ二つに切断する」というものだった。

さて人間の原形がかく両断せられてこのかた、いずれの半身も他の半身にあこがれて、ふたたびこれと一緒になろうとした。そこで彼らはふたたび体を一つにする欲望に燃えつつ、腕をからみ合って互いに相抱いた。
~同上書P85

かくてわれわれは、いずれも人間の割符に過ぎん、比目魚のように截り割られて、一つの者が二つとなったのだから。それで人は誰でも不断に自分の片割れなる割符を索める。だから、かつて男女(おめ)と呼ばれた双形者の一半に当る男達はすべておんな好きである。
~同上書P86

何とも不思議な説得力。しかし、ここで詳述される愛は、いわゆる恋愛というレベルの、つまり色恋のレベルを脱しない。対話の全体を俯瞰したときに、最後のソクラテスの言葉にこそ真実、真理があるのだと思われる。

エロスの徳についてはしかし、これから語らねばならぬ。その最重要な点は、エロスが不正を加えもせずまた加えられもせぬことである―いずれの神に対してもまたいずれの神からも、いずれの人に対してもまたいずれの人からも。けだしエロスは、彼が何らか受苦するとき、強制によって受苦するのではない。なぜならば強制はエロスに手を触れることができぬからである。また彼が為すものは強制によって為すのではない。なぜならば万人が、万事において、進んでエロスに奉仕するからだ。
~同上書P97

その上、愛には自制が不可欠だとソクラテスは語るのである。

公正意外にエロスがもっとも多く関与するところの徳は自制である。なぜなら、自制が快楽と情慾との支配を意味することと、エロス以上に強烈な快楽は一つとして存在せぬということについては、一般に意見が一致しているからである。
~同上書P97

バイ・セクシャルだと噂されたバーンスタインが、「饗宴」にインスパイアされたことは大いに理解できる。しかし、おそらく彼が最も惹きつけられ共感した箇所は以下ではなかろうか。

エリュキシマコスの言葉。

すなわち彼(ヘラクレィトス)はいう、「一者」は自分自身と抗争しつつも、なお結合一致する、あたかも弓や琴(リュラ)の諧調(ハルモニヤ)のごとくに、と。しかるに諧調が抗争することだといい、またはなお抗争の状態にある要素から成り立つと主張するのは、悖理もまた甚だしいものである。むしろ彼は恐らくただこういおうとしているのであろう。諧調は初めには抗争していた高音と低音とが、後に音楽技術によって協和せしめられて生じたものである、と。けだし高音と低音とがなお抗争しているのに、諧調の生ずるはずは決して無いからである。実際諧調とは和音(シュンフォーニヤ)のことであるが、和音はまた一種の協和(ホモロギヤ)なのである。
~同上書P77

「セレナード」は初演の時より専門家からは、終楽章のジャズの要素に関しての否定の見解が多いものの、やはり見事にシンフォニックで素晴らしい芸術作品である。

バーンスタイン:
・プラトンの「饗宴」によるヴァイオリン独奏、弦楽器、ハープと打楽器のための「セレナード」(1954)(1979.10Live)
・バレエ音楽「ファンシー・フリー」(1944)(1979.8Live)
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
ルース・メンゼ(ピアノ)
レナード・バーンスタイン(ピアノ、ヴォーカル)
ティシー・ティエールス(ベース・ギター)
ディッキー・タラハ(ドラムス)
レナード・バーンスタイン指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

第2楽章「アリストファネス」において、切々と歌われるクレーメルの独奏ヴァイオリンに感応。また、第4楽章「アガトン」の深遠かつ、密度の高い音楽の美しさ。
ちなみに、「セレナード」については、1986年のタングルウッド音楽祭での、当時14歳の五嶋みどりの独奏で作曲者自身が指揮をした実演でのエピソード、すなわち、終楽章「ソクラテスーアルキビアデス」演奏中に2度も弦の断裂に見舞われながら、一度の中断もなく少女が最後まで弾き切り、それが名高い名演奏になったエピソードが極めて有名だ(1986年7月27日タングルウッドの奇跡)。実際これは涙が出るほど感動的。

「おい、もう沢山だよ、」とソクラテスはいう。
「ポセイドンの神にかけて(とアルキビヤデスはこたえた)、抗議は一切無用です、僕にかぎって貴方の前で外の人を賞めるようなことはけっして無いのですから。」
~同上書P141

ふと思った。
ピート・シンフィールドは、“In The Wake Of Poseidon”の作詞にあたり、やはり「饗宴」に触発されたのではないかと。メンバーの脱退から一時的に崩壊の危機にあった当時のキング・クリムゾンのセカンド・アルバムの中で、この作品はとても尊い(相変わらず詩の意味は不明だが)。

・King Crimson:In The Wake Of Poseidon (1970)

Personnel
Robert Fripp (guitars, mellotron, celesta, electric piano, devices, production)
Peter Sinfield (words, production)
Michael Giles (drums)
Greg Lake (vocals)
Mel Collins (saxophones, flute)
Gordon Haskell (vocals)
Peter Giles (bass guitar)
Keith Tippett (piano)

解読不能の歌詞を乗せて、壮大な音楽が奏でられる、初期キング・クリムゾンの真骨頂。50年近くを経てもその凄みは色褪せない。

Plato’s spawn cold ivyed eyes
Snare truth in bone and globe.
Harlequins coin pointless games
Sneer jokes in parrot’s robe.
Two women weep, dame scarlet screen
Sheds sudden theatre rain,
Whilst dark in dream the midnight queen
Knows every human pain.

それにしても”Cadence and Cascade”の静謐な美しさ。後年のどのヴァージョンよりも、オリジナルのゴードン・ハスケルのヴォーカルが僕は好き(刷り込みだろうけれど)。

 

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