グリュミオーのルクー ヴァイオリン・ソナタほか(1973.12録音)を聴いて思ふ

僕たちに、有史以来累々と残されている音楽はすべて陰陽の陰の、すなわち母なる存在なのであろう。音楽は目に見えない。しかしながら、人々に与える感動は並みでない。世界は数と音でできているのだとあらためて思う。

「影」こそが本物なのかも知れない。
松岡正剛さんがいみじくも「擬」の中で語る言葉に、その神髄を思う。

世の中はロゴスによる「世界」だけでできているとはかぎらない。農耕や裁縫や日々の言葉づかいや食欲は、もっとくだけている。ちぐはぐやあべこべもおこっている。ぼくはこれを、世界に対して「世間」と言うことにする。世の中で世界に属するルール・ロール・ツールでかたちづくられているのが一割か二割くらいだとすれば、のこりの八割や九割は世間だらけになっている。
松岡正剛「擬MODOKI—『世』あるいは別様の可能性」(春秋社)P10-11

言い得て妙なる「世間」こそ影なるもの。そして、芸術はその「世間」の中で起こっていることなのだ。松岡さんはこうも言う。

おそらく自分の関心事からフツーや平均主義や量産を排除しなければならないだろう。まずは、そう思った。
それには逸脱や例外を仲間とすることになるだろう。だったら、異相や異質を怖れるわけにもいかない。次には、そう思った。けれども最も心すべきは矛盾や葛藤を朋友とするような仕事をつくり、そこに蕪村の句のような温度のある方法と、ちぐはぐをおもしろくさせる景色をもってこなければならないのだろうと思ったのだ。
P17-18

僕はみたび19世紀アメリカの詩人、エドワード・エスリン・カミングスの言葉を思った。

あなたをみんなと同じようにしてしまおうと日夜励んでいる世の中で、自分以外の何者にもなるまいとするのは人間のできうる闘争の中で最も厳しい闘いだ。そしてその闘いを止めてはならない。

人生は自分自身との闘いだ。誰しもユニークであらねばならない。
夭折のギョーム・ルクー。いわば音楽史の陰、あるいは影の存在。
彼の生涯はたったの24年。最晩年のヴァイオリン・ソナタの遠慮がちな美しさに僕はいつも翻弄される。母なる芸術の素晴らしさがここにあるのだ。

・ルクー:ヴァイオリン・ソナタト長調(1892-93)
・イザイ:子供の夢作品14
・ヴュータン:バラードとポロネーズ作品38(1858)
アルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)
ディノラ・ヴァルシ(ピアノ)(1973.12.8-11録音)

ウジェーヌ・イザイの委嘱による30分の大作ヴァイオリン・ソナタは、叙情的な旋律の宝庫。グリュミオーによる、無意識下(影)の退廃が音楽に彩光を与える。また、イザイの小品「子供の夢」にある、文字通り夢見心地の子守歌はグリュミオーの優しさの顕現。そして、アンリ・ヴュータンの「バラードとポロネーズ」のふくよかな音色に、沈思黙考と華麗な舞踏の必然を思う。

ルクーもイザイも、あるいはヴュータンも陰陽の陰を担う音楽家なのだろう(グリュミオーもか?)。

 

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