ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルのチャイコフスキー第5番(1998.7Live)を聴いて思ふ

何より人間の耳は音楽を聴くとき感情的であり、また希望に溢れています。事が起こる前に、成し遂げたいこと、聴きたいことを私たちはわかっているのです。2ヶ月後に今回のレコーディングのテープを聴いたとき、このオーケストラがどれほど信じ難いもので、また我々の協働がどれほど新鮮でまた自発的なものであったのかを再確認しました。
462 905-2ライナーノーツ

1998年夏のザルツブルク。ワレリー・ゲルギエフのこの言葉から、当日の演奏がいかに刺激的なものであったかがわかる。

作曲者が際物扱いした作品だが、完成度は極めて高い。
僕は高校生の頃、一時期この音楽にはまっていた。明けても暮れても、ひとつのレコード(あるいはエアチェック・テープだったか?)を繰り返し聴いていた。どれほど紛い物扱いされようと名作だと信じていたし、その思いは今も決して変わらない。何より誰の指揮で聴いても、また音盤にせよ実演にせよ、どんなときも最後は感動を喚起するのだから大したもの。稀代の交響曲は、作曲家自身の評価を超え、完全また普遍であり、永遠に生きるのである。

ゲルギエフの方法はいつものように粘り、ときに仰々しい。しかし、この作品に限ってはその大袈裟さが常識的に映るのだ。聴く者の精神を鼓舞する魔法の如し。この日会場に居合わせることができた人は幸せだ。真に陶酔的な時間が夢見のように過ぎ行く様に僕は驚きを隠せない。頬っぺたをつねったら痛かった。

・チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調作品64
ワレリー・ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1998.7Live)

第1楽章序奏アンダンテの物憂い響きから有機的。主部アレグロ・コン・アニマの自然な流れは、ウィーン・フィルと指揮者の自発性が生んだ奇蹟。また、第2楽章の思い入れたっぷりのうねりはゲルギエフの真骨頂。この中にずっと浸っていたいほど。

この年(1888年)、チャイコフスキーは指揮者として最初の演奏旅行を行い、ライプツィヒではブラームス、ブゾーニ、ディーリアス、グリーグ、ライネッケら、プラハではドヴォルザークに、パリではグノー、マスネなど、数々の作曲家たちと会っており、大いに刺激を受けている。
(平林直哉)
UCCP-1098/100ライナーノーツ

錚々たる天才たちに感化され、創造された作品が悪かろうはずがない。何というインスピレーションに溢れた交響曲であることか!第3楽章ワルツの可憐さ、優しさ、勢い。そして、ほぼアタッカで奏される確信に満ちた終楽章アンダンテ・マエストーソの凄まじいばかりの解放に酔い痴れる(やや見得を切るような大団円!!)。

なんと運命は厳しいのであろう!あなたたちが自分の魂に歩み寄っていくと、まず最初にあなたたちは意味がなくてもよいようになるのだ。あなたたちは、意味のないもの、永遠の無秩序に沈むと思うだろう。そのとおりだ!無秩序と意味のないことからあなたたちを救ってくれるものは何もない。なぜならば、これが世界の残りの半分なのだから。
C.G.ユング著/ソヌ・シャムダサーニ編/河合俊雄監訳/河合俊雄・田中康裕・高月玲子・猪股剛訳「赤の書」(創元社)P161

苦悩も解放も、あるいは闘争も勝利も一対であるということだ。
潔くあれ。扉はたぶん開かれるだろう。
終演後の聴衆の割れんばかりの歓声によって最初の扉が開かれたように僕には思われる。

 

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