アーベントロート指揮ライプツィヒ放送響のチャイコフスキー「悲愴」(1952.1録音)を聴いて思ふ

あくまで正攻法でありながら、決して常識的なものにならないのが、ヘルマン・アーベントロートの方法。内燃する気性の荒さがそのまま音楽に投影される様。
テンポは揺れる。溜められたエネルギーが一気に放出されるとき、音塊はことさらに巨大な放物線を描き、聴く者を襲う。特に、第3楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェでの生命力溢れる音楽は、指揮者の本懐。続く終楽章アダージョ・ラメントーソは、思わず正座をしたくなるほどの律儀で折り目正しさ。弦のうねりに興奮し、轟く打楽器と吼える金管に涙する。

多くの人はこの作品をある意味軽んじているのかもしれない。
下手にポピュラーになってしまったがゆえの有様。

あなたたちは、かの深淵を知っていると思っていたのか?ああ、賢い者たちよ!深淵を体験するというのは、また別のことなのだ。全てはあなたたちに向かってやって来る。人間が、これまで自分の兄弟らにもたらしてきたありとあらゆる恐ろしいこと、そして悪魔のような無慈悲なことを考えてみるがいい。それは、あなたたちの心において、あなたたちにやって来ることになっている。あなたたち自身の手にかかって、自ら苦しむがいい。そして自分たちに痛みを与えているのは、あなたたち自身の邪悪で悪魔のような手であって、彼ら自身の悪魔と格闘するあなたたちの兄弟ではないことを知るがいい。
C.G.ユング著/ソヌ・シャムダサーニ編/河合俊雄監訳/河合俊雄・田中康裕・高月玲子・猪股剛訳「赤の書」(創元社)P180

すべては思念の顕在化。チャイコフスキーが「悲愴」なる交響曲を書いて間もなく天に召されたのも、実は彼の望むところだったのかもしれない。アーベントロートの解釈にある多大な熱量は僕たちの心を焼き尽くす。

・チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
ヘルマン・アーベントロート指揮ライプツィヒ放送交響楽団(1952.1.28録音)

旧い録音の向こうから聞こえるパッション。
終楽章冒頭の弦のさめざめとしたうねりがものを言う。相対するホルンの虚ろで悲しげな響きはこの世のものと思えぬ恐ろしさ。あるいはコーダの慟哭は他を冠絶する圧倒。
ともすると表層的な表現に陥る作品だが、ひとたび名演奏に触れると、これほど身に染み、心に迫る音楽はない。

チャイコフスキーの「悲愴」は世紀末の大芝居だ。現代のわれわれにはついて行きにくい音楽であるが、このくらいの真実味に充ちた感情の流露、噴出に接すると、改めて胸を激しく突かれるものがある。
(宇野功芳)

アーベントロートの擁護者たる宇野さんの言葉が的を射る。

 

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