ジュリーニ指揮コンセルトヘボウ管のストラヴィンスキー「火の鳥」(1989.11録音)ほかを聴いて思ふ

「展覧会の絵」は、「キエフの大門」に至る随所でムソルグスキーの天才を感じさせる名作だ。旋律の豊かさはもちろんのこと、心象を音で見事に描写する様子に、思わず感銘を受ける。それがたとえどんな演奏であろうと、僕たちは心を奪われる。

普遍の作にはいつも革新がある。
カルロ・マリア・ジュリーニの晩年の演奏は、必ずしも名演奏になるわけではなかった。遅いテンポになることが多かったが、意味深さより外面的浅さが、清廉さより鈍重さが時に目立った。少なくとも録音を聴く限りにおいて僕はおおよそそんな印象を持つことが多かった。たぶん、実演に触れる機会があったら印象は変わったのかもしれないが。

ジュリーニの「展覧会の絵」は、実際のテンポより随分遅く感じるもの。
ひとつひとつのフレーズを丁寧に鳴らし、思いを込める。普段聴こえない(聴いていない?)音がリアルに浮かび上がる。
終曲「キエフの大門」の何という巨大さ。時に緊張感を削ぐ重厚な流れはやっぱりこの作品には異質のように思えてならない。

・ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)(1990.2.17&19録音)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・ストラヴィンスキー:バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)(1989.11.23-24録音)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

一方の、「火の鳥」組曲は終始美しさの極み。相変わらずの異様な遅さながら、コンセルトヘボウ管弦楽団のいぶし銀の音色が直接的に「音楽美」に貢献しており、幾度聴いても発見のある、彼ならではの特別な演奏。
第4曲「カスチェイ王の凶悪な踊り」冒頭の轟音の意味深さ。金管の奏でる細かいフレーズも決してうるさくならず、絶妙なアンサンブルで「火の鳥」の世界をめくるめく官能で包み込む。また、第5曲「子守歌」での癒しの木管が素晴らしい。そして、あの終曲においてジュリーニの圧倒的余裕がますます炸裂し、色香を含みつつ、枯れた味わいを魅せるのは彼ならでは。世界は間違いなく興奮の坩堝と化す。

ものごとの意味は、あなたたちによって作り出される救済の道である。ものごとの意味は、あなたたちによって作り出されるこの世における生の可能性である。それはこの世を支配することであり、この世におけるあなたたちの魂の主張である。
ものごとの意味は、超意味であって、それは物にも、魂にも存在せず、ものごとと魂の間にある神、生の仲介者、道、橋であり、渡っていくことなのである。
C.G.ユング著/ソヌ・シャムダサーニ編/河合俊雄監訳/河合俊雄・田中康裕・高月玲子・猪股剛訳「赤の書」(創元社)P178

音楽はたぶん、道や橋と通じていて、生の仲介者のひとつなのだろうと僕は思う。

 

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