朝比奈隆指揮大阪フィルのシューマン「ライン」(1994.10.17Live)ほかを聴いて思ふ

エドワード・サイードとの対話の中で、ダニエル・バレンボイムは次のように語る。

でも偉大な芸術作品はみな、二つの顔をもっていると僕は思っている。一つはそれが属する時代に向けての顔、もう一つは永遠に向けての顔。もちろんモーツァルトの交響曲やモーツァルトのオペラには、明らかにその時代に結びついた側面、今日の状況にはまったく関係のない側面がある。「フィガロの結婚」に登場する伯爵のもつ大きな特権は、完全に時代がかったものだ。けれども、この音楽にはまあ、なにか時を超えたものもあて、その側面については、発見するという気持ちで演奏しなければならない。
アラ・グゼリミアン編/中野真紀子訳「バレンボイム/サイード『音楽と社会』」(みすず書房)P69

少なくとも音楽そのものは時空を超える。
それこそ傑作は二重の、しかも矛盾した解釈を受け入れる器を持つのである。その意味で、現代楽器による演奏とピリオド楽器による演奏の問題、是非は答が出しにくい。個人的好みは横に置くとして、当時の音を再現する試みも良し、あるいは、未来を見据えたという観点で今風の再現もありなのだと今僕は思う。

例えば、19世紀前半のロベルト・シューマンの交響曲。
ジョン・エリオット・ガーディナーの、古楽器オーケストラによる薄く、そして透明感のある演奏は、見通しの良い分、繊細かつ、明朗であり、それが心に直接に響く。

シューマン:
・4本のホルンのためのコンツェルトシュテュックヘ長調作品86(1849)
・交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(1850)
・交響曲第4番ニ短調(1851改訂版)
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストレル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク(1997.5&10録音)

原点に還れ。古楽器にこだわるのはナンセンスだと思うが、作曲家が聴いた(であろう)音を知ることは、作品を知る上で大事なこと。変ホ長調交響曲「ライン」の、屈託のない軽快な主題提示に、本来この作品が持つ祝典的気分が一層理解できる。

一方、朝比奈隆と現代オーケストラによる、いかにも重厚で粘りのある演奏は、巨大である分、音楽の流れを全体観をもって即座に察知するのは難しい。
朝比奈の言葉を引く。

全体のバランスを私は考えない。それは数をとって音を小さくするようなものです。ラッパは本来大きな音がするものです。強弱は楽譜に書いてあるし、それは自分でやればいい。オケがあまりに音を鳴らさないとつまらない。その反対に全部が小さいのも美しい。楽譜を自分なりに解釈して、作品に忠実にね。
中丸美繪「オーケストラ、それは我なり―朝比奈隆4つの試練」(文藝春秋)P259-260

なるほど、朝比奈のリハーサルを聴くと、基本的にオーケストラの自発性に任せていることがよくわかる。

シューマン:
・交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(1994.10.17Live)
・リハーサル風景
―シューマン交響曲第3番「ライン」第3楽章、第4楽章より
―ブラームス交響曲第1番第4楽章より(1994.11.7録音)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

愚直で分厚い音響は、朝比奈節の真骨頂!
これほどまでに巨大であるべき音楽なのかどうなのかはわからないが、僕が思い出すのは、この1年後(1995年10月19日)に東京文化会館で聴いた新日本フィルとの崇高かつ深遠な実演。例えば、第1楽章の途中にふと現れる、おそらくブラームスの第3交響曲にインスピレーションを与えたであろうフレーズの素朴な表情に感銘を受けるのである。

バレンボイムの言葉通り、偉大な芸術作品には二面性がある。
要は、最後は好みの問題だ。

 

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