インバル指揮東京都交響楽団第849回定期演奏会Aシリーズ

浮いては沈み、沈んでは浮き上がる壮絶なドラマ。
抑圧された魂が、人生の酸いも甘いも経験する中で、死の獲得によってついに解放される様とでも言うのか、終楽章コーダで、混沌から徐々に態を成し、浄化を迎える瞬間はいつ聴いても震えが止まらぬほど感動を喚起する。

67分という、速めのテンポで堂々と鳴らし切る一大絵巻。
創造の背景や、当時の作曲者の心境についてはいろいろと憶測がある。
残された文献を眺めたところで、真実は誰にもわからない。
ならば、そういう後づけのものを頼りにするのでなく、「音の構築物」としてとらえ、ただひたすら感じたらどうなのだろう。

室内楽的パートと大管弦楽的パートとが極めて美しく錯綜する。
各奏者の技能が問われ、またオーケストラのアンサンブルとしての力量がものをいうショスタコーヴィチの交響曲の中でも、一部の隙もない、また一切の無駄なフレーズのない完全なる(松岡正剛的「つもり」と「ほんと」の間を往来する擬の)作品。あらためて感動した。
1年半ぶりのインバル指揮都響は上野文化会館。

東京都交響楽団第849回定期演奏会Aシリーズ
2018年3月20日(火)19時開演
東京文化会館
山本友重(コンサートマスター)
エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
・ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」

第1楽章アレグレット―モデラート冒頭、いわゆる「人間の主題」提示から気合十分。ただし、インバルは急がず慌てず、中庸の音量で音楽を作り、静寂と大爆発の対比を見事にコントロールし、この作品の内側に潜む悲哀を美しく表現する。音楽は、楽章が進むにつれ俄然ドライヴがかかり、途中幾度も指揮者は唸り声をあげる。
例えば、第3楽章アダージョ―ラルゴでは、特に中間部の高揚から、再現部の弦楽器によるコラールでの楽想の自然な流れと移り変わりに膝を打つ。
アタッカで続く終楽章アレグロ・ノン・トロッポ―モデラートでの、インバルの棒は一層明快で稲妻光り、音楽は生き物のように蠢き、時に沈潜、時に爆発、僕たちの志気を刺激する。

なるほど、チャイコフスキーが自身の交響曲第5番に対して「人々が本能的に感じるような拵えもの的な不誠実さがある」とした「擬的」要素が(意図はあるのかないのかわからないが)、確かに「レニングラード」交響曲にもあるように僕は思う。
それにしても、ショスタコーヴィチの創造力と構成力は天下一品。

今日の観客はとてもお行儀が良かった。
感謝、感激、雨霰。

 

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