ピノック指揮イングリッシュ・コンサートのバッハ ブランデンブルク協奏曲集(1982録音)を聴いて思ふ

一つとして同じ形のない奇蹟といえば言い過ぎなのか。
あるいは、独奏と合奏の緻密かつ繊細な組み合わせは、他に類を見ない唯一無二の創造物というのもオーバーか。
蠢く生命力。何という美しさ。
バッハのケーテン時代(1717-23)の傑作、6つのブランデンブルク協奏曲。
30数年前のCD黎明期に手に入れたトレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサートの演奏を久しぶりに聴いて思った。
演奏楽器やスタイルの新旧を超えて、バッハの音楽は何と普遍的であるか。
多大な努力とやり抜く力を源とし、常に挑戦をモットーとした彼の作品は、創造から300年を経た現代も実に神々しい。

「ブランデンブルク協奏曲」には、音楽をすることの喜びがあふれている。躍動する奔放なリズムと緻密できびしい音響構成、それらを支配する知的な音楽意志―しかし、何よりも感嘆に価するのは、6つの協奏曲が示す形態と内容の多様さである。当時の音楽界の趨勢が同工異曲の大量生産に傾いていたことを考えてみるならば、ひとつひとつの作品を大切にし、そこに全身全霊をこめる姿勢を貫いたバッハの姿に、改めて深い敬意を覚えずにはいられない。
~F35A 50011ライナーノーツ

「全身全霊をこめる姿勢を貫く」ことがいかに大変なことか。先般急逝された礒山雅さんの言葉が、きわめて正確にバッハの音楽の、否、バッハの在り方そのものを表わしている。

ヨハン・セバスティアン・バッハ:ブランデンブルク協奏曲集
・第4番ト長調BWV1049
サイモン・スタンデイジ(ヴァイオリン)
フィリップ・ピケット(ブロックフローテ)
ラッヘル・ベケット(ブロックフローテ)
・第5番ニ長調BWV1050
リサ・ベズノースウィック(フラウト・トラヴェルソ)
サイモン・スタンデイジ(ヴァイオリン)
トレヴァー・ピノック(チェンバロ)
・第6番変ロ長調BWV1051
トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサート(1982.3-5録音)

文字通り「喜び」満ちる第4番ト長調。第1楽章アレグロが弾け、第2楽章アンダンテが泣く。2本のブロックフローテが歌う終楽章プレストは懐かしさの極み。

「最善説って何ですか」カカンボが尋ねた。
「ああ、それはだねえ」カンディードは答えた。「すべてが最悪のときにも、これが最善だと言い張る執念のことだ」
ヴォルテール作/斉藤悦則訳「カンディード」(光文社古典新訳文庫)P123

あらゆる感情の発露。バッハの音楽は最善も最悪も包み込む。
落ち着いた音調で、総奏と独奏が交わる第5番ニ長調。第1楽章アレグロの、フラウト・トラヴェルソとチェンバロのやり取りが美しく、同時にピノックによるチェンバロ・カデンツァの妙技に惚れ惚れする。また、第2楽章アフェットゥオーソの、音色の優しさ。しかし、バッハの凄さは、こういう癒しの音楽の内側にも悪魔的なものを潜ませたこと。

たしかに、悪魔というのはこの世のできごとにやたら手を出すもので、どこにでもいます。私の体のなかにいても、べつにおかしくはありません。しかし、私の考えを率直に申しますと、じつは神がこの地球を何かしら邪悪な存在の手に委ねてしまったのです。この地球、というか、この小さな球体を眺めると、私にはそのように思われます。
~同上書P133

白眉は第6番変ロ長調。2本のヴィオラ、2本のヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてヴィオローネと通奏低音による六重奏の典雅な響きは、この世のものとは思えぬ清廉さ。いぶし銀の如し。

ぼくにわかっていることは、ひとは自分の畑を耕さねばならない、ということ。人間がエデンの園においてもらったのは、聖書にもあるとおり、そこを耕すため、つまり、労働をするためなのです。聖書が証明しているように、人間は休息をするために生まれてきたわけではありません。
~同上書P227-228

何より勤勉であることの大切さ。バッハの作品を通じて僕たちが学ぶべきはそれ。

 

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