ブーレーズ指揮アンテルコンタンポランのグリゼ「モデュラシオン」(1983.4録音)ほかを聴いて思ふ

現代音楽は癒しとなり得るのか?
なる、と僕は思う。
一見無慈悲な音調と、素人には一聴作曲者の意図が理解しにくい複雑な音の重なりが、一般大衆を遠ざけることになる理由だろうが、世界にひしめく日常のあらゆる雑音に意識的になるとき、人は様々な発見をするように、いわば無意味な(?)音の羅列に繰り返しただ身を浸すことで、ある日突如としてその意味がわかるときが訪れ、それが得も言われぬ歓びを運んでくれるときが来ることになるのだから興味深い。
音楽とは通常は縦横の「線」で成り立つものだと思うが、偶には「点」を意識し、「点」で捉えてみると新しい発見があるのかも。

例えば、一つの楽器に注目して、集中してその音楽に触れてみるが良い。
マーラーが交響曲第10番のアダージョ楽章で試みた、貫徹するトランペットのA音の、長い不気味な響きのように、僕たちに何かを訴えかけようとする音の連なりに気づくことがあるかもしれないのである。
何よりすべては作曲者の「挑戦」の産物。

ところで、バレンボイムはフルトヴェングラーと同じく、ブーレーズの在り方を擁護した。
彼はベートーヴェンもバートウィスルも、あるいはブーレーズも同列に扱おうとする。
フランス革命後の最大の革新者であり覚者であるベートーヴェンの芸術は、当時も今も間違いなく先進的だ。そして、20世紀音楽界に強力な影響を及ぼしたブーレーズの音楽、特に彼の創造作品は極めて理解し難い、ベートーヴェンの後期作品に通ずる崇高で近寄り難いオーラを持つ(ブーレーズが再現する20世紀現代音楽はすべて同様)。

ひとことで言えば、音楽の原理とは、内観、外観、意味の体制化原理である。これは人間の認知原理でもある。しかし音楽の独特な様相は、これに諸条件が加わることで初めて生まれてくる。
まず、その舞台である。音楽を用意する根本にあるものは、音と人間の二つである。どちらも物理現象であり、物理現象とは物理法則のあらわれそのもので、二つは表裏一体の関係にある。音楽における物理法則の重要性は、主に二つある。音と人間という二つの現象のあり方を決めているという点と、その二つの現象の関係構造を決定しているという点である。
近藤秀秋著「音楽の原理」(アルテスパブリッシング)P547

殊更難解に音楽を詳述する書だが、確かに発見はある。関係によって生み出されるものは音楽に限らず、すべてのものは人と対象物の間の何某かによって決定されるものだ。どんな音楽にせよ、それを享受する人間が優しさや癒しを感じるのなら、もっと言うなら、余計な思考を排除する、感覚だけに頼らざるを得ないならば、どんな音楽も間違いなく癒しを喚起する源なのだと僕は思う。
それならば、「理解」などできなくて良いのかもしれない。

・クルターク:亡きR.V.トゥルソヴァのメッセージ(ソプラノと室内アンサンブルのためのリンマ・ダロスの21の詩)作品17(1983.4録音)
・バートウィスル:…agm…(16の声と3つの楽器アンサンブルのための)(1982.6録音)
・グリゼ:モデュラシオン(変調)(33人の演奏者のための)(1983.4録音)
アドリエンヌ・チェンゲリ(ソプラノ)
マルタ・ファビアン(ツィンバロン)
ジョン・オールディス合唱団
ピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン(1982-83録音)

聴く者の感性など一切無視したであろう冷たい呼吸。
我思う、ゆえに我あり。唯我独尊的ブーレーズの真骨頂とでも言っておこうか。
しかし、ここには妖艶な、僕たちを翻弄するエロスのパワーが漲る。
何より、グリゼの「モデュラシオン」での爆音と静寂の入り乱れる音像に、眼の重い夜更けにもかかわらず、思わず覚醒するエネルギーを感知するのは僕だけか。
これは、やっぱり「癒し」の音楽であると僕は思う。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む