バーンスタイン指揮ウィーン・フィルのシベリウス第2番(1986.10Live)を聴いて思ふ

推敲を重ねる過程で頓挫した作品も数多い。
しかしながら、一度得た楽想は必ず何らかの形で新たな作品に生かしたのがジャン・シベリウスの常套。交響曲第2番もそうだったようだ。

ハイデルベルクから戻ったシベリウスは、イタリアで描いた構想を具体化するべく全力で仕事に向かう。ところがラパッロで手を染めた《祝祭》も、フィレンツェでスケッチした『神曲』にもとづく作品も、実現することはなかった。両曲の計画がどうして頓挫してしまったのか、その真相は分からない。しかしシベリウスはカルペランら支援者たちにイタリア旅行の成果を披露するため、何らかの大規模な作品を同年中には発表し、作曲家としての責任を果たさなければならないと考えていた。こうして新たに取り組み始めた曲が、交響曲第2番である。したがって、第2番の創作においては、計画倒れに終わった前述の作品の楽想をはじめ、イタリア旅行時に書き留められた数々のスケッチが柔軟に活用されたとみられている。
神部智著「作曲家◎人と作品シリーズ シベリウス」(音楽之友社)P102-103

確かに、第1楽章アレグレット冒頭に見られる、雲の翳りから差す陽光の如く煌く主題提示には、イタリア旅行で得た解放感や快活さが投影されているようだ。しかも、バーンスタインが晩年に録音したように、重い足取りで、旋律が充分に歌われるとなると、かの南国に別れを告げるのが辛いほどの愛着を持ったであろう作曲家の、名残り惜しい心情が見事に表現されていて、実に素晴らしい。
また、18分超を要する第2楽章テンポ・アンダンテ,マ・ルバートは、ダンテの「神曲」の、地獄編から煉獄編にかけての壮絶な闘争を示すような音塊が随所に垣間見られ、僕たちの魂を刺激する。

我を過ぐれば憂ひの都あり、我を過ぐれば永遠の苦患あり、我を過ぐれば滅亡の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、聖なる威力、比類なき智慧、第一の愛我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ。
第3曲
ダンテ/山川丙三郎訳「神曲(上)地獄」(岩波文庫)P25

中庸であることが大事だ。とはいえ、バーンスタインの表情は過剰で、それこそ我欲の憂いや苦悩を表現するよう。そこには「地獄編」が刻印される。

あゝ汝聖なる流れのかなたに立つ者よ、いへ、この事眞なりや否や、いへ、かくきびしきわが責に汝の懺悔のともなはでやは
彼は刃さへ利しとみえしその言の鋩を我にむけつゝたゞちに續いてまた斯くいひぬ
わが能力の作用いたく乱れしがゆゑに、聲は動けどその官を離れて外にいでざるさきに消えたり
彼しばらく待ちて後いふ。何を思ふや、我に答へよ、汝の心の中の悲しき記憶を水いまだ損なはざれば。
第31曲
ダンテ/山川丙三郎訳「神曲(中)浄火」(岩波文庫)P194

シベリウスはいつも惑いと怖れの中にあった。

・シベリウス:交響曲第2番ニ長調作品43
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1986.10Live)

そして、第3楽章ヴィヴァーチッシモからアタッカで拡がる終楽章アレグロ・モデラートは、まさに「祝祭」!!意味深く弾けるバーンスタインの棒に、ウィーン・フィルのうねる弦楽器群と咆哮する金管群の交錯に痺れる。異形のシベリウスであるが、これほど人間的で熱い、また情感こもるシベリウスは他になかろう。

慾を悪意のあらはすごとくまつたき愛をつねにあらはす善意によりて
かのうるはしき琴は黙し、天の右手の弛べて締むる聖なる絃はしづまりき
そもそもこれらの靈體は、我をして彼等に請ふの願ひを起さしめんとて皆斉しく
黙しゝなれば、いかで正しき請に耳を傾けざらんや
第15曲
ダンテ/山川丙三郎訳「神曲(下)天堂」(岩波文庫)P97

実演で聴いてみたかった。

 

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