ロスラック&グールドのヒンデミット「マリアの生涯」(1976&77録音)ほかを聴いて思ふ

音楽上のイディオムの差異は横に置く。
一聴、2つの版それぞれによる音楽の違い、演奏の違い、表現の違いは明らかで、実に興味深い。

《マリアの生涯》が新しく改められた。以前の作は力の誇示にすぎなかったとP・Hは打ち明けている。何かが克服されねばならなかった。これが霊感の結果かもしれないと、ひょっとして信ずる人はみなまったく誤っている。
(1949年1月、アーノルト・シェーンベルクの日記)
ティム・ペイジ編/野水瑞穂訳「グレン・グールド著作集1―バッハからブーレーズへ」P246

グレン・グールドは、次のように述べつつも、シェーンベルクのこの言葉に同調する。

《マリアの生涯》は、作曲家としてのヒンデミットの展開に中心的な役割を果たした作品である。四半世紀を隔てて発表されたその二つの版は、かれの音楽家としての発達の跡を端的にあらわし、その過程は、一つの歴史的先例のようなものになっている。大作曲家が若い日に試みた作品のもっとも影響力の大きい重要な作品を素材として採り上げ、技法的にも語法的にも成熟期の光に照らして自らそれを再創造した例でこれと並ぶものをわたしは知らない。
~同上書P230

ロクソラーナ・ロスラックの深みのある声に、煌くグールドの、言葉なくして意味を語るピアノ伴奏の妙。

創造行為において最初のインスピレーションはおそらく真実を孕む。
技術がこなれて後年改訂したものは確かに受け入れられやすい。しかしながら一方で、どこか一般大衆に迎合した、陳腐さ(?)というのは否めない。グールドが指摘するのはそこだ。

なるほど、シェーンベルクが秘かに呟くように、半音階を多用した無調の、とっつきにくい響きの初版と、いかにも歌手の歌いやすさを念頭に置き、まさに「力の誇示」というべき技によって改作された第2版の違い。優劣を判断するのは到底僕には無理だが、ブルックナーの版の違いを受け入れるのと同様、別の作品として聴き込むのは、「一粒で二度美味し」く、純粋に音楽を楽しむのにおすすめだ。

・ヒンデミット:歌曲集「マリアの生涯」(1922/23版)
ロクソラーナ・ロスラック(ソプラノ)
グレン・グールド(ピアノ)(1976.11.21 &1977.1.15-16, 29-30, 2.13, 3.4-5録音)

ヒンデミットが、作品のクライマックスを形成するという第9曲「カナの婚礼」は、「ヨハネ福音書」をもとにしたイエスの最初の奇蹟を描くが、ここでのグールドのピアノは前奏からひねりが効き(魔法の如し)、意味深く、ロスラックの歌もまた性急で緊迫感に満ちる。
一方、1948年改訂版は、ピアノ前奏はより明快でストレート、また長い。そして、ハルニッシュの歌は清澄かつ不思議な余裕があり、それこそヒンデミットの作曲語法の違いが現れたシーンなのだろうと想像する。

その過程で、「カナの婚礼」は初版の82小節から改訂版の166小節に、そしてこじんまりしたフガートから、48小節のピアノ・ソロに先導されるかなり大きくて扱いにくいアリアに成長する。
しかしながら第2版には抜きんでて心打つ一瞬がある。「犠牲の生涯はあらがいようもなく定められていた。たしかにそれは記されていた」という詞を強調するもので、「ピエタ」の冒頭の和音を先取する。そうは言っても全体的にみると、婚礼の会衆のざわめきから、マリアが予言としてのイエスの奇跡にふいに気づく場面への、ディゾルヴ手法による転換は初版の規模での方がはるかに効果をあげている。
~同上書P235-236

甲乙つけ難い新旧両版を、そのときの気分によって聴き分けるのも良かろう。
ただし、ライナー・マリア・リルケの内なる革新を音化するのに、若きヒンデミットが採用した方法こそたぶん的を射ているのだろうと思う。

・ヒンデミット:歌曲集「マリアの生涯」(1948改訂版)
ラヘル・ハルニッシュ(ソプラノ)
ヤン・フィリップ・シュルツェ(ピアノ)(2014.5.26-28録音)

ところで、リルケは、「マリアの生涯」を決して自身の創作物として第一級品だとは認めていなかったという。

それにしても「マリアの生涯」は、その作者自身から奇妙に冷淡な扱いを受けている作品である。リルケはこの詩集を「外的な制約によって」(1924年10月21日付のヘルマン・ポングス宛ての手紙)「副次的」(1922年1月6日付のジッツォー夫人宛ての手紙)に手がけられた仕事だと呼び、彼の本格的作品のなかには数えていない。こうした自己評価の心理的背景には、この詩集が純粋な自発的創作衝動にもとづく仕事ではなかったという事情や、またそれが充分な創意によって形成されたものではないという自覚などとともに、自分がキリスト教とは離反した思想的立場にありながら、カトリック的表象の肯定を形式的前提とするような詩集を制作したことにたいする疚しさめいたものがあったように思われる。
田口義弘「伝説と詩作:リルケ『マリアの生涯』をめぐって」(京都大学ドイツ文学研究)P30-31

しかしながら、ヒンデミットが音楽を付したことにより、この詩は間違いなく命を吹き込まれ、詩人が想像した以上に価値ある、また生々しいものに変貌したのだと思う。
初々しく、そして晴れやかな(?)第1曲「マリアの誕生」は、初版の赤裸々な作風に対して、改訂版は極めて安定した、取り繕った音調を持つ。趣異なれど、いずれも美しい音楽だ。

セザンヌの絵にはまったリルケは、毎日のように彼の絵を見に出かけたのだといわれる。そして、その感想を同じく毎日妻クララに手紙で書き送ったそうだ。

何という一途な情熱、常人には考えられない。毎日画を見にでかけて何時間も画の前に立っている人はいるだろう。しかし帰ってすぐペンをとり、長文の手紙を毎日書き送る。その手紙をつづけざまに読むクララ。いま野に摘んだ花のように、いま海でとれた魚のように息つくひまもなくセザンヌが入ってくる。むつかしいセザンヌ論ではない。おそらくこの日(1907年10月6日)にはじめてリルケはセザンヌという画家を意識したのではないだろうか。勿論それまでにセザンヌはよく知っていた。しかし突然画の前に立ち止り、全身に血がのぼってゆくように感じたのははじめてだったろう。
志村ふくみ「薔薇のことぶれ―リルケ書簡」(人文書院)P78-79

リルケは自分には絵はわからないと謙遜する。しかし、それでいてその時々の感情や思考を、リルケはどうしても人に伝えたかった。やっぱりアウトプットこそが変化と成長の原動力なのだろう。

ちなみに、第13曲から第15曲は、マリアの死が描かれるが、ここでは相変わらず鼻歌を歌うグールドの、バッハを奏するようなピアノ演奏に分があり、初版の敬虔な美しさが群を抜く。絶品だ。

 

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