グールドのバッハ トッカータ集Vol.1(1976.10&11録音)を聴いて思ふ

一時、死の淵に立たされた坂本龍一のインタビューが面白い。
自分が癌に侵されたと知り、病床で思ったことは音楽のことなどではなく、食べることだったという。

過度に期待をされると困るんですよね。音楽は世界を救うみたいなね。救うまでいかなくても癒やすとかね。本当にもう困っちゃうんですよね。

余裕があるから音楽ができ、また、聴くことができると彼は断言する。
いやはや、悟りの境地。否、よく考えたら当たり前のことなのだけれど。
彼は次のように続ける。

根底にあるのは、インプットだけしていてもつまらないから。

というより、すべては生命活動と同じで、その一環だということ。
そして、そういう状況の中、彼の心をとらえたのが、震災で破壊された1台のピアノだったらしい。

津波ピアノは地震と津波という自然の大きな力で、ある意味、破壊された存在です。ピアノ自体もともとは木でできていて、生きていて、自然とともに変化していくものなのに、大きな人工的な力で曲げられて作られたものです。

それを、僕たち人間が「調律が狂ってきた」というのは、人間的な基準で言っているに過ぎない。モノとか自然の方から言えば元のカタチに戻ろうとしている力です。調律が狂うっていうのは。

坂本龍一のこの言葉に僕は目から鱗が落ちた。
僕たちは常に主観でしか物を見ることができない。
すべては「元のカタチ」に戻ろうとする、その性質を忘れてはいけない。これからの時代、大自然の視点にいかに立てるかが人間としての成長の鍵であるように思う。

ところで、少年の頃、坂本龍一はグレン・グールドに恋をした。

ぼくは、11歳の時グールドに出会い、即座に彼の虜になった。グールドが弾くバッハは、ぼくにとって、まるで作曲家自身が弾いているかのように、正確だ。また同時に、ぼくは彼の弾くブラームスをこよなく愛している。いったいどうやって、彼は若くしてあのような深い瞑想性と沈静なるメランコリーを獲得してしまったのだろうか。

何と愛に溢れる言葉。
人間的な基準の最たる楽器であるピアノを、それこそ正確に、機械仕掛けのように弾いたグールドの演奏に釘付けになったとは、いかにも後年の彼の思考と矛盾するようだが、実際は違う。確かにピアノは調律されてこそ威力を発揮する。しかし、グールドの演奏は杓子定規のものではない。彼の演奏が何十年経っても人々の心をとらえるのは、そこにゆらぎがあり、曖昧さが潜んでいるからだ。

J.S.バッハ:トッカータ集Vol.1
・トッカータニ長調BWV912(1976.10.16/17/31&11.1録音)
・トッカータ嬰ハ短調BWV910(1976.10.31&11.1録音)
・トッカータニ短調BWV913(1976.10.16&17録音)
グレン・グールド(ピアノ)

バッハのトッカータは、その内側にあらゆるイディオムが盛り込まれていることが革新的。相変わらずグールドは鼻歌を歌う。その音と同期するように奏される音楽は、どの瞬間も人間的で熱い。バッハの、知性と感性が見事に混合する奇蹟の作品たちに僕は舌を巻く。例えば、ハ短調BWV910の陰りのある情熱。また、ニ短調BWV913の悲哀。いかにも無機的な風貌をまとった浪漫的解釈に、バッハの本質を垣間見る。グレン・グールドのバッハは、やっぱり永遠だ。

 

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