フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのシューベルト「ザ・グレイト」(1943.5.12Live)を聴いて思ふ

フルトヴェングラーの、第二次世界大戦中の実況録音は、いずれもが鬼気迫る劇的な表現を核にするが、時に、同じ表現様式でありながらずっと柔らかい、聴衆の心に平和と安らぎをもたらすような音色を醸すものがある。
おそらくオーケストラの音の色彩のせいもあるのだろうか、ストックホルムでのウィーン・フィルとのシューベルト「ザ・グレイト」は、その前年のベルリン・フィルとのものに比較して、悪く言えば生ぬるく、良く言えば洗練されたふくよかさを持つ名演奏だ。とはいえ、デモーニッシュなフルトヴェングラーのスタイルは遵守されており、弦はうねり、打楽器は炸裂、そして金管楽器は咆哮、75年前という録音条件の悪さを超え、聴く者を魅了する。
相変わらず第1楽章アンダンテ―アレグロ・マ・ノン・トロッポの凄まじさは、彼に比肩する指揮者を僕は知らない

ナチスとの恐るべき心理戦の中で、フルトヴェングラーは精神を消耗しつつも、こと音楽に向き合うときには、俗世間の一切を忘れ、目の前の譜面に没頭したのだろうと思う。当時、彼は、露骨に自分に刃向かってくる勢力に対抗するのに、残された唯一の楯だと思われたゲッペルスとは何とか良好な関係を保つことに努めたという。

フルトヴェングラーの訪問を受けた。スウェーデンとデンマークの巡業を終わったばかりで、国家社会主義の精神に満ち溢れている。この男はかなり変質した。私にはこの上なく嬉しいことだ。この男とは長い間争ってきたが、今では首尾よくいっている。彼は完全に私のラジオと映画に関する方針を認めていて、私の役に立つようにしている。
(ゲッペルスの日記より)
サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」(アルファベータ)P60

いかにもゲッペルスの勝利のように見えるところが切ない。
戦後の裁判においてナチスに協力した嫌疑をかけられたのも致し方ないことだろう。
しかし、彼は彼なりにどんな手段を使ってでも戦わなければならなかったのだと思う。フルトヴェングラーの戦時中の演奏の強烈なエネルギーの源泉は、ナチスに則られたドイツを真のドイツに揺り戻さんという強い意志ではなかったか。

・シューベルト:交響曲第9番ハ長調D944「ザ・グレイト」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1943.5.12Live)

第2楽章アンダンテ・コン・モートの静かな安寧と、第3楽章スケルツォの優美でありながら激しい舞踏の対比。終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェは、冒頭の遅めのテンポから加速し、一気呵成に進められる、フルトヴェングラーの代名詞のような演奏。

ヴィルヘルムはこの戦争がもうそれほど長くは続かないと考えていました。ナチスがロシアに侵入したときすぐに、この戦争がドイツの敗北で終わるだろうと思ったのです。アメリカが参戦するとすぐに、彼は数週間の問題だと考えましたが、心の中では恐ろしい葛藤に苦しんだのです。祖国の敗戦を望むなんて、それは辛いことですから。しかし、敗戦こそドイツがナチスから解放される手っとり早い方法と考えて、納得しました。でも、実際にはもちろんそのような形にはなりませんでした。
ヴィルヘルムがただ一度だけ連合国軍を呪ったことがあります。連合国軍が都市を、とくにドレスデンを爆撃したときのことです。私に向かって大声で叫びました。「なぜだ。まったく不必要なことだ。連合軍はいずれ間もなく両側から近づいてくるのに、なぜドレスデンのような美しい都市を壊さなければならないのだ」。
(1989年のエリーザベト夫人の回想)
~同上書P65

彼にとって最重要物は美であり、それを作った歴史であり、文化であったのだろう、まさにフルトヴェングラーらしいエピソード。フルトヴェングラーの芸術は永遠に生きている。

 

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