クリップス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管のモーツァルトK.297(1972録音)を聴いて思ふ

唯識論の中、第八識阿頼耶識に至る過程にある第七識末那識こそ悟りを邪魔する自我意識でありながら、一方、末那識こそが悟りを獲得するためのスイッチでもあるということを教えていただいた。迷いや業があるからこその悟りだというのだ。業があるから悟りがあるのだと知ったときの驚愕。僕は目から鱗が落ちた。

モーツァルトには崇高な音楽を生み出す聖なる側面がある一方で、スカトロ趣味など、常人には考えも及ばない、馬鹿げた(洒落にもならない)俗っぽさがあったという。

そう、そう、ぼくのあれは元気です。二週間後にはパリに発つけど、今日もひとクソたれておこう。返事を早く書いてね。でないと、ひょっとしてぼくが発ったあとだと、受け取るのは手紙の代わりに一通のウンチ。ウンチだ!—ウンチだ!—おお、ウンチ!—ああ、おいちっち!クソなめろ!ウンチ、ポンチ、クソ、なめろ!・・・
(1778年2月28日付、マリーア・アンナ・テークラ(ベーズレ)宛)
高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P231

22歳のモーツァルトが旅先のマンハイムから出した、いわゆるベーズレ書簡である。後世の研究者たちの中にはモーツァルトの異常性、というか幼稚さを指摘する向きもあるが、ここで高橋英郎さんはとても良いことを書いておられる。

音楽史を繙くがいい。モーツァルトは、後にも先にも例のない作曲家なのだ。それを、フロイトなどを引用して「いい年をして」「幼児性」であると類別化する。間違いのもとである。感性の無限の開放があった、類い稀な人間が存在していることに気づくべきであろう。
~同上書P231

確かにもともとは公開されるはずのない、極めて個人的な手紙の中の言葉なのである。幼児性も何もあったものではないだろう。「感性の無限の開放」という言葉に僕はとても納得する。

同年初夏作曲され、パリのコンセール・スピリチュエルで初演されたニ長調の交響曲は、文字通り「無限の開放感」が反映される傑作だ。壮麗な第1楽章アレグロ・アッサイ、また、情感豊かな第2楽章アンダンテは実に典雅な響きを持つ。そして、終楽章アレグロは後年の感性を先取りする雄渾さが特長。ちなみに、この音盤には、「転調が多く、長過ぎる」というル・グロの注文によって書き直された新たなアンダンテ(初版稿)も収録されており、簡素ながら名残惜し気に消えゆく終結を持ち、実に興味深い(モーツァルト自身はこっちの方を好んでいたらしいが、音楽そのものが別物なので2つの味わいを楽しめることが素敵)。

モーツァルト:
・交響曲第31番ニ長調K.297(300a)「パリ」(1972.11録音)
・アンダンテ~交響曲第31番K.297「パリ」第2楽章の初版稿(1973.9録音)
・交響曲第35番ニ長調K.385「ハフナー」(1972.6録音)
・交響曲第36番ハ長調K.425「リンツ」(1973.6録音)
ヨーゼフ・クリップス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

特筆すべきは「リンツ」交響曲。最晩年のクリップスの棒は繊細かつ明朗。
ハイドンに倣って、初めてアダージョの序奏を付した第1楽章の幽玄さ。主部アレグロ・スピリトーソの快活さにより、一層その深みが強調されるところが美しい。続く、第2楽章アンダンテの優しさの内に垣間見る自信と確信は、当時のモーツァルトの心身の充実度を見事に伝えてくれる(この楽章では珍しくティンパニもトランペットも休むことなく活躍する)。そして、堂々たる第3楽章メヌエットに続き奏される終楽章プレストは、ほとんど魂の開放であり、ここではクリップスの透明感を獲得した老練の指揮がモーツァルトを通じてさらなる自由を謳歌する。

聖俗あわせ飲んだモーツァルトの天才。
何という自由さ!!真の自由がここにはある。

 

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